才能の正体

才能とかセンスという言葉を使いますか。そもそも才能とは何なのでしょう?

確かに、人は生まれた時から多少の違いがあります。背が高い人もいれば、目の大きい人もいる。その違いが、特定の分野に有利に働くとき、それを「才能」と呼ぶのかもしれません。

例えばバスケなどのスポーツは、ゴールが高い場所にあるので身長が高い方が有利です。だから、身長の高い人を、「バスケの才能のある人」と呼ぶのでしょう。

そういう意味では確かに才能というものは存在するのでしょう。

ただ、「才能」という言葉を多用する人には一つの傾向があります。努力をしない人です。「才能」という言葉を多用する人は必ずといっていいほど、自分以外の誰かに対して「・・さんは才能がある」と言い、自分に対しては「私は才能がない」と言うのです。つまり、自分が何もしないことの理由として「才能」という言葉を使うのです。

では、実際に才能がある人はどうしているのでしょう。もちろん例外はありますが、彼らは「私は才能がある」などとは言わないし、思ってもいません。彼らは自分がその能力を向上させるために費やしてきた時間と情熱を知っているから、それを単に「才能」という曖昧な言葉で片づけたくないのです。

さらに言えば、彼らは現在の能力に満足はしていないでしょう。毎日、少しでも上達するために時間と情熱を注ぎながら工夫を重ねているのです。

もし、あなたが「才能」という言葉を使っているなら、自分が「才能」という言葉で他者の積み重ねてきた時間と情熱を軽視していないか、自らが動かない言い訳としてその言葉を使っていないか、考えてみてください。

「才能」という言葉を使った瞬間に思考停止に陥ります。「才能」という言葉で片付けてしまったら、上達をしている人がその裏で繰り返している試行錯誤にも決して目が向かないでしょう。

つまり、「才能」とは自ら動きたくない人のための言葉であり、そんな言葉で自分を誤魔化している時間があったら、今すぐに動き出すべき、と言うことです。

本気の大切さ

人生で一番の後悔は何ですか?というのはよくある質問です。失敗もその後の成長の糧になっていることを考えると、後悔と言えるものはほとんどないですが、あえて一つ挙げるなら、本気に取り組まなかった時期があるということです。

今の子供たちの間にもあるのでしょうか。僕の場合小学校高学年から中学校時代に、僕の周囲だけなのかそれとも学校全体になのかはわかりませんが、手を抜いて軽々と物事ができることがかっこいい。という空気が流れていた時期がありました。実際それでできるならまだいいのですが、よくないのは、そもそも本気で取り組まなくなるという状態です。

この状況の明らかな兆候は、同級生の間で「なに本気になってんの?」「そんなに一生懸命やって何が楽しいの?」という言葉が言われることです。

もちろんその期間は個人差があって、グレて中学生時代を棒に振っていた人に比べれば僕自身のケースは比較的短かったと思いますが、それでもその期間あえて努力を見せないようにしたり、もしくは努力そのものをやめてしまった時期があったのです。

今思うと、その時期はほとんど何も学んでいなかったし、勉強でも運動でも人間としてもほとんど成長していなかったと思います。その時期、もし本気で取り組んでいたら、きっともっと充実した学生時代を楽しめていたでしょう。

今、そんな時期を迎えている人がいるなら伝えたい。本気で取り組んでいない時間からは何も生まれない。本気で取り組むからこそ失敗してもその失敗が次の成長につながりますが、手を抜いて失敗したら何も学べない。

もし、あなたが何かに本気で取り組んでいる時、親しい友人から「そんなに本気になってどうすんの?」という声を投げかけられたりしても、まったく気にする必要はないです。むしろそれはさっさと縁を来るべき人間関係で、あなたの人生に何のプラスにもなりません。

人生の大事なことを集めたFour Agreements 四つ約束という有名な書籍があります。そこにも四番目の言葉として「Always Do Your Best」、常に真剣に取り組む、という言葉があります。きっと誰もが人生で遅かれ早かれ悟る真実なのでしょう。子供に限らず大人でも、「自分は毎日本気で一生懸命生きている」と自信を持って言えないなら、毎日の過ごし方や人間関係を今こそ見直すべきでしょう。

文武両道の秘訣

文武両道という言葉があります。ご存知の通り、それは学業だけでなく運動にも秀でている人を称賛する言葉で、単に運動ができる、いわゆるスポーツ万能よりも強い称賛の意を含んでいます。

しかし、なぜ文武両道はスポーツ万能よりも高く評価されるのでしょうか。その背景に、文武両道を成し遂げるための重要な要素と、それがなぜ難しいとされるかの理由が潜んでいるのではないでしょうか。

もしあなたが、運動は得意だけれど勉強は苦手だとか、あるいはその逆で勉強は得意だけれど運動は苦手といったように、勉強や運動に限らず、美術や音楽などの特定の分野に苦手意識を持っているなら、今こそその考えを改めるべき時かもしれません。それは、単なる思い込みです。

運動も勉強も芸術も上達するために必要なのは練習です。
運動も勉強も芸術も仲間がいるとモチベーションを保ちやすいです。
運動も勉強も芸術も弱点を見極めて適切な目標設定をして練習した方が上達が早いです。

つまり、運動、勉強、芸術といった分野で上達するためにやるべきことは、根幹では共通していると言えるでしょう。

むしろ文武両道を難しくしているのは「文」と「武」をが別物であるかの印象を与える文武両道いうとういこの言葉の存在に他なりません。何事も上達のためには継続的な練習が不可欠なのに、「数学の勉強」と「サッカーの練習」というように言葉を使い分けることが、まるで異なる能力が必要であるかのような誤解を生み出し、それが不必要な苦手意識に繋がっているのです。

もしあなたが今、運動は得意だが勉強は苦手だと感じているなら、ぜひ自分自身に問い直してみてください。あなたは運動と同じくらいの時間と情熱を勉強に注ぎ、練習してきたでしょうか?と。きっと新たな自分の可能性に気づくことでしょう。

世のためにできること

世の中を良くするために一人一人ができることとは何でしょう?ときどきそんなことを考えます。

もちろんエジソンが電球を発明したりスティーブ・ジョブズがiPhoneを世に送り出したように、一人の人間の革新的なアイデアが人類を大きく前進させることができたらすごいことですが、必ずしもそこまで壮大なことである必要はないのです。

毎日一人ひとりがわずかに意識してこれをやれば世の中は少しずつ良くなる、それはどんなことでしょう。ひと昔前だったら、道にゴミが落ちていたら拾う、とか大きな声で挨拶するとかだったかもしません。僕はその答えとして意識して行動してることがあります。それは

ネット上のコンテンツに自分の意見を残す

というもの。

知っての通り、インターネットは同じ意見の人が集まれば大きな動きのきっかけになります。しかし、必ずしも良い動きのきっかけばかりではありません。自分の顔を晒す必要もなく、かつ相手の顔の見えない匿名性の高いインターネット空間だからこそ、誹謗中傷がエスカレートして深刻ないじめに発展したり、最悪の場合、人を自ら命を絶つという悲劇に繋がってしまうことさえあります。

過去にインターネットで誹謗中傷が暴走して不幸な出来事に発展したケースは、きっとそれが現実の場で起こったことであれば、正義感の強い誰かが止めに入ったことでしょう。残念ながらネット上ではスルーする人が多いようです。しかし一人一人が「自分はそうは思わない」「こんな考え方もあるんじゃないだろうか?」など冷静なコメントを残していたら、全体として冷静さを取り戻したのではないでしょうか。

世のためにできること

ネット上の小さな対立すら避けたいという気持ちはわからなくはないです。僕も自分の心の容量が許す限りに抑えていますが、それでも、その範囲で可能な限り意見を残すように努めています。

自分と同じ意見がすでに書かれていたらそのコメントにいいねをつけて、書かれていなかったらコメントとして残すのです。コメントを残しても10分程度の時間しかかからないですが、そのコメントは地球上のどこにいても見ることのできるほど影響力のあるものなのです。

求められる力、自制心

時代の変化と共に求められる能力は変わっていく。次に求められる能力は何か、この先ニーズが高い仕事は何か、などは常に人々の関心の的である。

今回は仕事としてではなく、個人の比較的汎用的な能力のなかで今後より重要になってくるものについて触れたい。それは

  • 自制心
  • バランス力

である。どちらも以前から重要な能力なので「何を今さら」と思うかもしれない。しかし、今後この二つの能力はさらに重要になってくる。すでに自分の自制心とバランス力に自信を持っている人もさらに磨き抜かなければならくなるだろう。

なぜ自制心がより必要になのか。それは消費を促す企業と一般の人との接点が増えるからである。インターネット以前であれば、企業との接点は、外出中であれば街中に貼られている看板やチラシ、家の中であればテレビのみであった。

それが2000年以降、インターネットとパソコンの普及によって一般的になったパソコン上の接点を利用して、さまざまな企業がサービスの購入や無料利用を促すようになった。その流れはスマホの普及によってさらに加速する。人は家でもオフィスでもない移動中にも企業との多くの接点を持つようになったのだ。

接点の増加はパソコンとスマホで終わりではない。家庭にはアレクサが入り込みし、駅や電車の広告は紙から動画となりまた一部インタラクティブにもなっている。今後さらにインタラクティブな側面が増えると共に、人々の嗜好に合わせてカスタマイズされていくことだろう。

UnsplashPavel Sanchezが撮影した写真

多くの企業の目的は、売上を上げることである。広告枠にお金を注ぎ込みながら消費者の心の平穏を守るために静かな30秒を提供する、などという企業は残念ながら存在しない。多くの企業が、徐々に増えていく消費者と接点を最大限利用し、さまざまな誘惑で消費を促すのである。YouTubeを見れば広告が現れ、新聞を見ればバナーが現れる。

企業に限らずYouTuberなどのコンテンツ作成者も閲覧数を稼ぐために中毒性の高い動画でユーザーの気を引こうとする。その手法は常に改善され洗練されていく。外に出て街ゆく人を見れば、常に片手にスマホを持っている歩いている人の多さに驚かされるだろう。一体そのうちどれだけの人が、充実した人生を送るためにそのスマホを使っているのだろう。

そんな誘惑ばかりの環境で、どんな人間が充実した人生を送り、理想の人生に辿り着けるのだろう。それは、個人の自由な時間へ、あらゆる接点を利用して侵入を試みる企業やコンテンツ発信者の誘惑から逃れることのできる人間である。それを可能にする力こそ自制心である。

自制心というとメンタルの強さのように聞こえるかもしれないが、常の中での仕組みづくりも含んでいる。通知をオフにする、SNSのアプリをスマホから削除するなど、すでに一部の人に推奨されているものなどはわかりやすいだろう。

こうして考えると、今後求められる自制心が、今まで良しとされていた自制心とはレベルが違うことがわかるだろう。今後も続く接点の増加と強化される誘惑のなかで、自らの人生の目的への集中を可能にする、そんな自制心が求められるのである。

もう一つのバランス力についてはまた次回語りたい。

トレンドは反転を繰り返す

トレンド、つまり流行を知ることはデザイナーに限らず様々なシーンで求められる能力である。個人としても組織としても、早めに流行を知ることができればより早くユーザーのニーズを掴むことができるし、早めに流行に合わせた製品やサービス開発に時間やリソースをかけることができる。

され、では流行を知るにはどうしたらいいのだろう。今の流行を知るのはそれほど難しくはないが、未来の流行を知るにはどうするべきだろう。

UnsplashKrisztian Taboriが撮影した写真

もちろん未来を完璧に予想することはできないが、比較的高い確率で予想することはできる。次の二つの視点で過去を振り返れば、未来もある程度予想可能なのである。

  • 短期的には反転を繰り返す
  • 長期的には良くなる

反転を繰り返すというのは過去の歴史の様々な出来事を振り返ればわかりやすいだろう。アールヌーボー時代の次にアールデコが来たのなどはかなり古い例だが、ここ数十年の動きに限って言えば、UIデザインの流行などはその好例といえる。リアルを追求したスキューモーフィズムの後に、単純化したフラットデザインの流れがやってきて、その後再びわかりやすさをやや重視のために立体感を追加したマテリアルデザインへと移っていったのである。

そもそもこのような流行の変化はなぜ起きるのか、それは個人や組織が抱きがちな2つの思いに由来する。

  • 〇〇っぽくありたい
  • 〇〇のなかで目立ちたい

立ち上げたばかりの会社を想像するとわかりやすい。彼らが最初にやりたいことの一つは会社として立派なロゴを作ることである。このようなときにロゴデザインは会社のロゴっぽいデザインになる。なぜなら信頼に足るしっかりとした会社っぽく見られたいから。これが〇〇っぽくありたいの例である。周囲と同じ行動、つまり右へ倣えは安全や信頼獲得を考えたときには非常に論理的な選択なのである。

ただ、右へ倣えは安全や信頼獲得のためには正しい選択でも、成功のためには必ずしも正しいとは言えない。なぜなら競合の多い世界では、成功のためには目立たなければならないからである。これが○○のなかで目立ちたいという思いである。

〇〇っぽくありたい人や組織は流行のど真ん中を狙う一方で、〇〇のなかで目立ちたい人たちは流行からあえて外すのである。

しかし、流行からあえて外した人や組織が成功者として認知されると、その後大多数がそれに倣うこととなり新たな流行となるのだ。このようにして流行は反転を繰り返すのである。

ただし、同じ箇所を行ったり来たりしているわけではない、反転を繰り返す過程で、本当に不要なものは少しずつ削ぎ落とされ、時代や文化、技術の進歩のなかで新しく必要になっった要素が少しずつ取り入れられていくのだ。これが長期的には良い方向に向かう理由である。

こうやって様々な世の中の出来事を振り返ると、5年後、10年後、どんな方向に向かうか予想ができるのではないだろうか。