世の中には有名な画家をモデルにした映画が多数あることを、ある本を読んで知った。絵画をただ観て楽しむだけでなく、そこに画家そのものの性癖や、その人が生きた時代への知識が加わればさらに楽しむことができるだろうという考えから、そういう映画を時間が許す限り観てみようという考えに至った。その最初のステップがこの作品である。
ゴヤは肖像画が得意とされた画家だから、多くの権力者達の肖像画を描いている。しかし同時に、1700年代後半から1800年代前半というヨーロッパ動乱の時代を生きたことによって、時代が彼にもたらした衝撃がしばしばその作品に表れる。フランス革命やナポレオン率いるフランス軍のスペイン進行はまさにその最たる例である。
映画中には、ゴヤの作品はもちろん、他の有名画家たちの絵画も多数使用されていた。例えば、ヒエロニムス・ボス、カラヴァッジョ、ベラスケス、僕の乏しい知識で判断できたのはこの辺までだが、西洋絵画好きには楽しめる映画だろう。
ちなみに物語的にはどうかというと、もちろん期待していなかったのだが、やはりそれなりであった。今日の善が明日には悪になるような動乱の時代だから、もはや何がどうなればハッピーエンドかすらわからないのだから、仕方がないかもしれないし、この映画自体、歴史の一部を垣間見るような感覚で見るべき作品なのかもしれない。強いて言うならやはりナタリーポートマンの演技はある程度のインパクトをもたらしてくれた。
せっかくなので、画家を扱った映画をいくつか挙げておく。
開演してすぐに思ったのは、「『オズの魔法使い』を復習しておくべきだったかも、ということだ。もちろん有名な物語だからいろいろな場面が記憶には残っている。例えば、オズの魔法使いが実はただの人間であることや、ドロシーが竜巻で飛ばされてオズにやってきて、最後は履いていた靴の魔法で故郷に帰ること。悪い魔女がバケツの水をかけられて死んでしまうことなどである。ただ、それでも観劇中に「あ、そんなエピソードあったな〜」というふうに思い出すこともいくつかあったということだ。もしこれから観にいこうと考えている人がいるならぜひその前にもう一度「オズの魔法使い」を読むことを勧める。
さて、もちろんネタバレするようなことは書かないとして、劇自体にも触れておくと、いくつかあるエルファバのシーンはすごく良かった。特に休憩間際の中盤の山場は圧巻。その歌声が強烈だったから、初めて出演者のリストをもらってきた。せっかくだから載せておく。
ちなみに、前回ライオンキング観劇後に、「物語重視の作品より、音楽と踊り重視の作品の方が好きだ」と書いたが、前言撤回。本作品は物語抜きには語れない。もちろん演出もよかったが、その悲しい物語に涙が溢れ出て来た。この辺は言葉でいくら説明しても足りるものではないので、僕にできるのは、ぜひ足を運んでくれるように言うだけである。
ちなみに、休憩時間にスタッフに閉演時間を尋ねる人や、クライマックスに席を立って出て行くグループがわずかながら見られた。おそらく遠方から上京して観劇しに来た人が交通機関の都合でやむなく去ったのだと思う。こういうとき自分があらゆる芸術にアクセスしやすい、先進国の首都である東京周辺に住んでいることの幸運を感じるのである。
それにしてもいつからだろう。悪が悪でなくなったのは。ギリシア神話の中で人々の恐怖の対象であるメデューサが実は、アテナの怒りを買って髪を蛇に変えられてしまった美しく可哀想な少女であったように…、一寸法師に登場する鬼が、実はその容姿から村人に忌み嫌われた外国人であったように…、幼いころは簡単に、「この人は善人」「この人は悪人」って決められたのが、大人になるにつれて簡単に割り切れなくなっていくのだ。
まあ、なにはともあれ、ウィキッド最高。高いハードルを見事に超えてくれた。
以前より観たかったブルーマングループのパフォーマンスを本日ようやく見に行くことができた。考えてみれば、劇でもなく映画でもなくコンサートでもない。この手のものを生で観るのは初めてである。
劇場に入ると、実はそこかしこに仕掛けが施してあるのに気づく。例えば、劇場左上と右上に見えるメッセージ表示板(多くのコンサートホールでは「No Smoking」とか「携帯電話の電源はお切りください」とか表示されるあの部分)であるが、そこを暇つぶしに読んでいると「携帯電話、ipod、NintendoDS…ダイエット乗馬マシーンの電源はお切りください…」
「ダイエット乗馬マシーン」ってなんだそれ!
という具合である。
詳細を書いてしまうとこれから行く人の楽しみを削ぐことになってしまうのでそこは辞めとくとして、感想はというと、思ったよりも現代を風刺した内容が入っていることに好感が持てた。ただのパフォーマンスではなく、少し考させられる内容もあったという意味である。
さて、これから見に行く人にアドバイスをするとしたら…、思いっきり楽しみたいなら汚れたもいい格好で行くこと、だろうか。はっきりいって「ポンチョシート」なんぞほとんど関係ない、日本的なノリでいくときっと驚くはずだ。自分も数少ない選ばれ者になってしまったため(最左端前方に座ってた)、その後ずっと手を洗いたくて仕方がなかった。あと、少し短いかな、というのも正直な感想である。(面白かったということの裏返しかもしれないが)。
あと、このパフォーマンスが、今後日本人にどのようにして受け入れられているか、もしくは行くか、というのも非常に興味深い問題である。
もっと空いている時期を見計らって行くつもりだったのだが、前日に友人とミレイの話で盛り上がったため本日朝1で行ってきた。開館と同時に、入り口付近に群がる観覧者達を尻目にとりあえずオフィーリア、そして個人的に好きな作品の「あひるの子」の展示してあるまだほとんど観覧者のいない奥のスペースに直行。
じっとこちらを見つめる強いまなざし。…いやいや、こういうのはやはり言葉で説明するより観るのが一番、自分の中に沸き起こった感情をなんとか言葉で説明しようとしてしまうのが悪い癖だ…とはいえ、それをやらなければこのブログを書く意味もない…。うーん。
2分ほどその絵の前でその感動を満喫してから、まだ観覧者の少ないミレイの晩年の作品から、時代を遡るようにして観覧。再びオフィーリアの前に来るころには…開館直後よりさらに人が増えてもはや絵の前に立つこともかなりの困難を極める状況。しかし、「オフィーリア」はなんというか、期待したほどの感動もなく、期待値が高すぎたのかその周囲を囲んだ人の多さに興ざめしたのか、今思うと、絵の前にガラスが1枚入っていたのが原因のような気がする。これって画家と同じ位置に自分がいるという感動をなんか薄れさせて、観覧者に失礼な気がするのだが…そういう意見はないのだろうか。やはり絵の具の凹凸が光に反射して、その絵の前で筆を握っている画家を感じさせてくれるのが生で観る一つの楽しみだと思うのだ。
さて、一通り観覧したあと、もう一度「あひるの子」の前へ。都合のいいことに丁度その絵の前にベンチがあったのでそこにすわって10分ほどぼーっとその絵を見つめる。ほかの観覧者は意外とこの絵を気にも留めないのが、自分だけのヒロインを見つけたようでなんかうれしく、ちょっとさびしい。
ちなみに「あひるの子」って日本の美術館所有だからチェックしてれば割と頻繁に見れるらしい。えええ、なんか感動が薄れた気が、そういえば最初にこの絵を知ったのはどこかの日本の美術館のサイトだったような。と、調べてみると、国立西洋美術館(先々週行ったし…)のサイトの所蔵品検索でいつでも見れることに気づいた。
好きな画家の一人であるシュールレアリスムの巨匠サルバドール・ダリに強く影響を与えた画家として、フェルメールにはそれなりに興味は持っていた。加えて、フェルメールの作品がこれだけ一斉に日本に集まることなど、自分の生きている間におそらくもうないであろうという思いから、本日混雑を覚悟でフェルメール展へ行ってきた。
フェルメール展とはいえ、フェルメールの現存する作品は世界でもわずか33点、そしてそのうち来日している作品数は、史上最大とはいえわずか7点。とてもそれだけで一つの展覧会を支えられるはずもなく、デルフト派と呼ばれるフェルメールと同時期にオランダに生きた画家達の作品もあわせて展示されていた。
さて、こうして展示されている絵画を観てみると、やはりデルフト派の画家達の作品は非常に似ている。同じ時期に同じ場所で生きて同じ○○派という呼ばれ方をしているのだから似ているのは当たり前と思うかもしれないが、たとえば後にラファエロ前派とか、印象派とか、バルビソン派とか同様に一つにくくられる画家たちが多く出てくるが、そんな○○派の画家達は確かに似ているがゆえにそうよばれながらも、それぞれに比較的個性があるように思うのだ。例えば、ドガ、ゴーガン、ルノワール、モネ、マネ、などはいずれも印象派に属していてはいるが、いずれも作品を見ただけでその画家が推測できるほどタッチに個性を感じるという意味だ。
それに対して、デルフト派に関しては比較的にみんな似ているように思った。とはいえ時代を遡れば遡るほど、宗教やしきたりゆえに個性を主張できない環境だったのも不思議ではない。写真という文化が広まり始めて、写実主義の存在意義が薄れたのちの画家達の個性の豊かさと比較すると、似たような雰囲気に感じられるのは仕方がないことなのだろう。
ちなみに、そんなデルフト派の作品のなかで収穫といえるのが、ピーテル・デ・ホーホという画家。正直言って聞いたこともなかったのだが、光を綺麗に描写したその作品は僕の好みでもある。
さて、フェルメールの作品についてなのだが、わずか7作品のうち、最初に描かれたとされる「マルタとマリアの家のキリスト」は色使いもタッチも、ルーベンスの作品と似ているように感じたが、次第に輪郭を明確にして光のコントラストを強調した僕の中のフェルメール的なタッチに変わってきたように感じる。解説の中にはレンブラントに影響を受けたような記述があるものもあったが、個人的にはあまりそのような共通点は感じなかった。
とはいえ窓から光が差し込む(僕の中での)フェルメールの個性ともいえる作品は「手紙を書く婦人と召使い」の1点だけで、どうも不完全燃焼。やはり、昨年来日した「ミルクを注ぐ女」を見るべきだったか…。期待値が高かっただけに…。いやいやみんな騒ぎすぎなんだって…汗
さて、切り替えて次は近いうちにミレイ展。実はこのブログの上部の右側後方で流れている額縁の作品「オフィーリア」。この作品が今、日本に来ているのだ。
ふと思い立って、2週間ほど前にチケットを取って今日初めて「ライオンキング」を観劇してきた。感想は、可もなく不可もなくといったところ。最安値の席でありながらこれぐらい楽しめるならいいのかな、とも思う。
劇自体の感想は、昨年観た「キャッツ」に比べるとミュージカルのわりにあまりじっくり聴かせるシーンが少なかったように思う。ミュージカルはやはり物語の面白さと、歌とダンスで魅せるシーンとのバランスが重要なのだろう。そして、そのバランスに対する好みが個人の嗜好によって大きく分かれるところなのだろうが、本作品はやや物語に重みを置いて、音楽とダンスで魅せるシーンを犠牲にしているような感じを素人ながらに感じた。友人に言わせると「ウィキッド」のほうが物語もわかりやすくて面白かったらしいが…。
今日感じたのは、自分の嗜好はどうやら、ミュージカルのみに関して言えば、物語より、ダンスや歌のシーンに重みを置いているらしい、ということ。そう考えると、次に予定している「ウィキッド」は自分の嗜好からさらにはずれそうな気もするが、なにごとも経験。
2階席のかなり後方、後ろから2列目だったので、舞台の人の配置がわかりやすく「こんな見方もたまには面白い」と思えた。
レイトショーを観てきた。個人的には予想以上に良かった。物語の「浅さ」がいいというか、たとえば「ハウルの動く城」なんかは、深いテーマが裏にあることをしきりに印象付けながら結局それがなんだかわからない、そんな妙なストレスを感じたのだが。本作品は単純明快。2時間弱楽しんで余計なこと考えずにそれでおしまい。
なんといってもポニョがかわいい。
特に好きな画家というわけではないが、好きな画家であるジャン・フランソワ・ミレーとともに、バルビソン派に属するという点で、ひょっとしたらミレーの絵を見る際に何か今までと異なる視点をもてるのではないかと考えて観に行った。
コローの絵は特長がなさそうでありながら、ふとその絵をみると「コローっぽいな」とわかるのだからやはり特長があるのだろう。その個性を、自分の本展覧会で受けた印象から言葉にしてみようと思う。
コローの風景画は、特にそこに描かれる木に強いこだわりが感じらる。必ずといっていいほどキャンバスの上に大きな面積で描かれるその木の多くは、葉がないか、あっても煙のような描かれて、どこか暗雲立ち込めた「嵐の前の静けさ」的な印象を与える。そして空もまた個性的で、薄い雲で覆われたどこかさびしい天候を好んで描いているようだ。
人物画はややタッチが異なり、その輪郭をしっかり捕らえている。モネの人物画のように背景に溶け込んでしまうようなことはないが、彩度の低い色の選択は、そこに描かれる人物を彫刻のような生命力のない何かに見せてしまう。本展覧会では途中に同時期を生きたルノワールやドランの作品も展示されており、それらと見比べるとその違いは明らかである。個人的にはやはり人物画は生命力ある作品の方が好みではある。
さて、数は少ないながらもギリシア神話を扱った作品も数点展示されていた。エウリディケとディアナ(アルテミス)である。ギュスターヴ・モローに代表されるように、絵画をもっと理解するためにはギリシア神話と宗教に関する知識はあればあるほどいい。
さて、全体的な感想を言うと、個人的にはコローの絵からかもし出される個性にそれほど魅力を感じなかった。ただ、この時代の多くの画家たちに影響を与えた(といわれている)ことを考えると見ておいて損はないのかもしれない。何しろこの手の作品展は見たいと思ったときには世界中を旅しなければ見れない状態になっているのだから。
近くにオープンしながらも今まで行っていなかった鉄道博物館へ行ってきた。
うわさどおり混んでいたが、キッズが多いので視野は常に開けていた。最大の魅力は施設南部のヒステリーゾーン。1階には各時代の車両が展示してありそのいくつかには実際に乗車して座席に座ることができ、さらにそのうちのいくつかの車両では食べ物を食べることもできる。弁当を買って車両のボックスシートに座って食べている人たちが多かったのは面白い。ほかにも休憩スペースは多多用意されているにも関わらず、本来なら食事の採り難いあの狭い座席にわざわざ座って弁当を食べることに魅力を感じる人はたくさんいることがなんか嬉しくもある。
古い客車は映画でみるような木の窓枠のもの。実際にはひどく乗り心地が悪かったのだろうが、なんとも奥ゆかしい。奥のほうには国鉄時代の見覚えのある車両もあり、車内の中吊り広告まで当時をそのまま再現している。それにしても当時はなんとマニアックな中吊り広告だったのだろう…いや、これ本当か?。
ヒステリーゾーン2階には鉄道の歴史年表が展示されている。1953年の開国後、一気に欧米の文化を取り入れて近代化していく様子がわかるだろう。個人的にはこの年表もパンフレットにして配って欲しかった。
最大の見所は間違いなくそんなヒステリーゾーンだろうが、ラーニングゾーンやスペシャルギャラリーなどもかなり楽しめるだろう。なぜレールは今の形になったのか、なぜ枕木のしたにはじゃりが敷いてあるのか、レールが枕木の上を滑らないためにはどうすればいいのか、閉塞区間の考え方など知っていたことから知らななかったことまでいい刺激になった。世の中の多くの技術同様、鉄道の技術の一つ一つも長年の試行錯誤の積み重ねであり、そしてそれが「人を運ぶ」という人の生活と命に密接に関わるものだけに、多くの時間とお金をかけられてきたことが実感できるだろう。
改めて怪我の影響で最近3年間していなかった、18きっぷの旅を再開しようかと思った。とりあえず近いうちに行ってみたいのは土合駅、北浜駅、青海川駅の3駅。
感想は、というと、まあ、こんなもんだろう、といった感じ。「日本、カナダ、イタリア合作」というような謳い文句の作品で面白かったためしがない。物語の展開よりも映像の美しさが印象的だった。
さて、ひとつ思ったこと。多くの人の頭の中では、その学習過程のせいで、日本史と世界史の時間軸というのはなかなか同期を取れていないものだと思う。わかりやすく言うなら、日本史上の出来事を時系列に列挙することや、世界史上の出来事を時系列に列挙することはそれなりに社会科で歴史を真面目に勉強してきた人にはできたとしても、では、世界である事件が起こったとき、日本はどういう時代にあったかということが瞬時には浮かびにくいのではないだろうか。
だから、この作品のようにある時代の、世界と日本を同時に映すという物語展開は、個人的には新鮮さを感じるのである。しかし、映画自体はお勧めはしない。
左足の痛みをこらえながら行って来た。入院日が決まるよりもチケットを取るほうが先立ったのだから仕方がない。
今回は舞台の左側から舞台を見下ろすようにしていたため、それぞれの演奏者の手元が良く見れた。ラストのボレロは、CDで聴くと同じメロディを繰り返し演奏しているだけの短調な曲にしか聞こえないのだが、やはり生で聴くと、音量のコントラストが激しくて、迫力が違う。
一方で、いまだに音色からどの楽器かがわからない。それ以前に木管楽器の区別がつかない。
一昨日六本木ヒルズに行って感じた「ひょっとしたら正月は美術館関係空いているんじゃないだろうか」という勢いそのままに本日はネット上で話題になっていたアンカー展へ。109の前のものすごい人ごみを見たときはひるんだが、いざBunkamuraに入ると騒がしさはどこかへ。
さて、見始めてすぐに抱いた感想は、フェルメールとクールベとジャンフランソワミレーとジョンエヴァレットミレーを足して4で割ったような感じ、というもの。特徴的なのは子供をモデルとした人物画の多さだろう。輪郭をはっきりさせて光の陰影をしっかりキャンバスに表現するスタイルは、非常に好みである(だから見に来たのだが)。特に描かれている子供達の顔と手の表情が印象的だった。
個人的に気に入ったのは、「おともだち」という作品。残念ながらネット上にその画像が見つからないのだが。もし見に行かれる方はぜひ注目して欲しい。二人の女の子の表情が訴えてくる物語が…涙が出てくる。
今回の展覧会は絵の横のパネルに書かれている当時のエピソードや関連項目の説明もも非常に充実していて楽しむことができた。特に、アンカーの生きていた時代(1831-1910)は写真を発明したルイ・ダゲールともかぶっていたため、アンカーは写実的な正確さと絵画的な大胆さの間で悩んだというエピソードが興味深かった。
そんなアンカーだからか、生計を立てるための肖像画を描く際に、客にこう尋ねたことがあったという。
絵画における大きなテーマだったのだろう。そして、写真という文化の出現によって多くの画家たちは自分のスタイルを改めて見つめなおしたのではないだろうか。
肖像画においては客の要望に従うにしても、単に画家が描きたい対象物を描く場合に、見たまま描くか意図して変えるかという考えは、昨今の映画のCG(コンピュータグラフィック)などと通じる部分があるように感じる。
例えば映画「タイタニック」で悠然と海を航海する豪華客船のCGなどは、見ている人にそれを実写だかCGだかを考えさせないことが重要であり、同様に絵画においても、光の陰影を調整して意図して見ているも人の目線を訴えたいもの対象物に導きながらも、その作為を感じさせないことが大切な気がする。
そのような例だと最近よくメディアで取り上げられたフェルメールの「牛乳を注ぐ女」の台形のテーブルなどは有名であるが、今回のアンカーの作品にも注意してみるとそのような細かい意図的なアレンジは随所に見られた。
ちまたで話題の六本木クロッシング2007へ行って来た。着いたときには既に正午を回っていたのだが、大晦日という日にちとミッドタウンの影響だろうか、なぜかヒルズはやたらと空いていて快適に展覧会を楽しむことができた
「枠に収まりきらない作家」と銘打つだけあって、どれも好みの別れそうな作品ばかり。そもそもこの手の作品展は好き嫌いで見るものではなく、心を刺激するために利用するのがいいのだろう。そして、そんな変わった作品ばかりなので見るほうも少々戸惑う。床にタオルが落ちているかと思って見たら実はタオルの上に鉄塔の模型があり、どうやら緑のタオルを山に見立てた作品らしい…とか、壁にある赤いソファは作品なのか、それともただの休憩スペースなのか、どこまでが一つの作品でどこからが次の作品か分からないものも数点あった。
やはり自分の好みなのだろう、時間軸のない2D作品に目を奪われてしまう。個人的には入り口付近にある立石大河亜(たていしタイガー)の作品「FUJI HIGH WAY」の奇抜な遠近法の使い方とタッチが好みである。
毎日新聞をひたすら鉛筆でコピーした吉村芳生(よしむらよしお)のドローイング新聞には不思議な刺激を受けた。彼の作品はなにかをひたすら描いただけ。金網をひたすら書き続ける、新聞をひたすら書き写す、そして自分の顔をひたすらデッサンし続ける。なんというか、アートというのは評価されるために作るのではなく、作りたいものを作り、それが評価されるか否かは時の運なのだと。そんなふうに感じた。
映像など、時間軸を取り入れた作品はもちろん、見る人のアクションへのレスポンスとして表現された作品も多々あった。ただ、そういう作品を見て思うのは、やはり、2Dの静止画として仕上げられた写真や絵画と違って、それを展示するための空間や、見る人のなかに「見るための意識」が必要だということ。そして、やはり自分は忙しい日本人がその生活の中でたやすく受け入れられる、時間軸のない2D作品が好きだということを再認識した。
さて、今回初めて音声ガイダンスを利用した。まあ、今回の作品展の作品ゆえにもう少しガイドがほしいと思った結果だが、なかなかよかったので、他の展覧会でもこれからは利用してみようかな、と思った。
ちなみに今回初めてヒルズの展望台から風景を眺めたが、元麻布ヒルズの美しいシルエットが魅力的だった。そして、国立新美術館のフォルムも印象に残ったので調べてみた。そうか、これが先日亡くなった黒川紀章(くろかわきしょう)の作品だったのか。
川崎に住んでいた頃、なにげなくテレビをまわしたときなどに東京MXテレビで放送していた演劇。キャラメルボックスを最初に知ったのはそんなとき。それからずっと生で観たいと思ってて、ようやく今回実現させることができた。
例によって比較対称がないので絶賛も批評もしにくいのだが、まあ、良かったのではないかと思う。しっかりストーリーに入れて、涙できたし。ただ、池袋サンシャイン劇場は少し狭くて、(普通の身長の男性は足のやり場に困る)2時間座りっぱなしってのは少しきつく、間に10分でも休憩が欲しかった。
とりあえず、どこからがキャラメルボックス色でどこからが原作の色なのかがわからないのでこの空気に浸っているうちに原作であるいしいしんじの「トリツカレ男」を読んでみよう。
原作・脚本・監督松尾スズキ「クワイエットルームにようこそ」。前から見たいと思っていた映画で、ようやく今日。仕事に行く日より早く起きて、松竹系MOVIXのモーニングファーストショー(1,200円)で観てきた。
内容は、オーバードーズによって精神科の閉鎖病棟に入院させられた女性の話。その閉鎖病棟の中の人間関係に日本の社会の縮図が見える。みんなどこかおかしくって、どこか病んでいてる。助け合えばもっと楽に生きられるのに、電話番号とメールアドレスしか知らない薄っぺらな関係しか築けない。孤独でどこかおかしな現代の都会の生活を風刺しているのだろう。
ただ、精神科という舞台でそれを極端に描いているだけに、世間に誤解を与えそうな印象は受けた。なんといっても神経症で休暇を取っていた公務員が遊んでいただけで非難されるぐらい世間の人は精神疾患に対して理解力がないのだから。
とにかく、期待を裏切らない(期待以上ではなかったが)メッセージ性の強い作品で、個人的には満足のいくものだった。
ちなみに話は変わるが、最近アジアの映画が徐々にハリウッドテイストになってきているような気がする。CG技術の発達や行政が撮影に協力的になったことがその理由なのだろうが、やはり邦画は邦画らしく、静かな流れの中に強いメッセージがあるのがいい。今日、改めてそう思った。
最近ミュージカルや演劇にも趣味を広げようと努めている。なぜならそれは、スポーツや映像を楽しむのと違って、先進国に住んでいる、世界で数少ない人しか教授できない類のものであり、さらに都心に住んでいるという幸運の巡り合わせを味合わない手はない、と最近思うようになったからだ。
今日はその第一弾、劇団四季の「キャッツ」である。早めに席について開演を待つ。「最前列はネコ達が通りますので足を出さないでください」という係員の声に何の違和感も感じなかったあたりで僕はすでにキャッツワールドへ足を踏み入れていたのかもしれない…なんて。とりあえず、比較対象が非常に少ないので、その内容について多くを語ろうとしてもボロが出るだけだと思うが記録の意味も含めて感じたことを書く。
専用劇場ということもあって、大道具の使い方やネコたちの登場方法が豊富で、いい方に繰り返し裏切られることになった。今回は2階席の正面最前列で観て、舞台全体を一望できた、それはそれで非常に恵まれたと思うが、もしまた機会があるのなら今度は1階席の最前列の舞台と一緒に回転する席に座ってみたいものだ。
また、僕の隣の方に外国人の一団が座っており、おそらく彼等は猫たちの日本語の台詞の意味がほとんどわかってなかったのだろうが、台詞がわからなくても楽しめるだけのパワーがあった。ちなみにこのミュージカルのテーマとして歌われているあの曲。よく聞く曲なのだがタイトルがわからない。(調べたら「メモリー」という曲だそうだ)。あの曲をセクシーなネコ達にソプラノの高い声で歌われてしまったら…泣く…。
11月11日で「キャッツ」東京公演が3周年を迎えるらしい。11月6日から特別カーテンコールを行っているということで、意図せず記念すべき時を過ごさせてもらったようだ。
芸術の秋だからというわけではないのだが、スポーツクラブが何故か休館日だったのでフィラデルフィア美術館展に行ってきた。
写実主義、印象派、の18世紀前半コローやピサロから19世紀前半のキリコやマグリットまで画集やインターネットなどで見慣れた画家達の作品が勢ぞろいしていた。例によってアートと名のつくものは言葉にしようとすればするほど陳腐になるだけなのだが、個人的な記録の意味も含めて、いろいろ思ったことを書いてみる。
全体的にリアルな人物画を描く画家が少なかったので、というのもモディリアーニの描く人物は例によって面長で白目を向いているし、マティスやルオーの人物画もどちらかというと人間離れしている。ピカソやレジェのそれはもはや人間ではない。というわけで、ルノワールの人物画は今回の展覧会自体が目玉として推しているだけあって、常に大勢の人に囲まれていて、個人的にも赤味を帯びた皮膚のルノワールの人物画は魅力的だと思う。
当然これだけたくさんの画家の作品が集まっていれば好き嫌い分かれるもので、フォーヴィズムと言われて原色を多用するマティスの絵のよさなど自分には特に理解できない。ただその一方で、同様に色を多用するシャガールを自分が好むことにふと気付く。結局、芸術的感性は言葉では説明できないということか。
さて、普段、本や画集やインターネットで見ている分、展覧会に足を運ぶ際は、その実物の大きなキャンバスの迫力に触れたいという期待は高まり、その一方で実際見てみたら驚くほど小さかったなどと失望することもよくあるのだが、今回は幸いにもそれはなかった。特にキリコの「占い師の報酬(The Soothsayer's Recompense.)」やルソーのお得意のジャングル「陽気など道化たち」は画集などでは大した絵に見えないのだが、実物の大きなキャンバスを前にするとその迫力と雰囲気に飲み込まれるだろう。
日本人はゴッホとモネが好き。とはよく言われることだが、人の流れを見ていると本当に顕著に好みが分かれる。実は僕はゴッホもモネもあまり好みではない。とはいえ個人的に割と好みであるルオーやカンディンスキーの周囲が閑散としているのはじっくり見れるという面では嬉しいが、少し悲しくもある。
巡回ルートの最終セクトは「アメリカ美術」。ここにきてようやく自分がアメリカ美術をほとんど知らないことに気付く。せいぜいポロックとアンディ・ウォーホルぐらいだろうか。そもそもあまり画家の出身地など意識してこなかったのだが、せっかくだからこれを期に少し目を向けてみよう。また違った側面で面白さが見出せるかもしれない。
さて、11時前には一通り見終わって、もう一度最初から気に入ったものだけ見直そう、と自分にとっては御馴染みの儀式に移ろうとして入り口付近に戻ると、そこはすでに身動きの出来ないほどの人、人、人。実は国立新美術館のフェルメールへとはしごしようと思っていたのだが、人の多さにまいって断念。やはり展覧会は平日行くに限る。
とりあえず出口付近で、親孝行した気になるために、モディリアーニとルノワールのミニフレームを各1個ずつお土産に購入。この文章を書いている時点ですでに自宅のリビングに飾られている。
とりあえず、フィラデルフィア美術館展、当日券1500円。お得と言っていいだろう。
NHK交響楽団〜グリーグ没後100年・シベリウス没後50年〜が埼玉会館であったので行ってきた。
いろいろ心に残ったものはあるのだが、それを言葉にできるほどの知識を持ち合わせていないのでその辺は次の機会に。とりあえず、好きだった<ソルヴェーグの歌>が生で聴けたのは大きな収穫だった。
午前3時ごろ、なぜか急に外に出たくなって空を見上げると川崎の夜のわりには星がきれいだった。マイナーどころでは三角座からくじら座まで見えたので、道路を挟んだ向かいにある公共の施設の駐車場の芝生に横になって1時間ほどペルセウスを見上げていたら流星が1つ流れた。火星も大きく見えた。結局眠りについたのは5時過ぎだった。
正午過ぎに起きて、スカッシュの友人からもらったチケットでベルナール・ビュフェ展のために損保ジャパン東郷青児美術館へ行ってきた。輪郭の濃いタッチの絵が特徴的。時代とともに極端に画風が変わるにも関わらずそのへんの解説が細かくされていないのが残念だった。ゴッホのひまわりもとりあえず拝みたかったのだが残念ながら愛・地球博のために貸し出し中だった。
その後はTIPNESS宮崎台へ行くが、今日もスカッシュコートはあいていなかったのでプールで泳ぐ。クロールで100メートル、平泳ぎで150メートル程で飽きた。
夕方はイラン戦を見てそれなりに満足。日本にはこのくらいの強さでいてほしいものだ。
午前中は部屋の中で適度にエアコンを効かせて本を読む。一昨日図書館で借りてきた「電車に乗れない人たち」を読了。パニック障害に悩む人々とその治療法について書いてあり、僕の悩む症状と若干似ている部分もあるが、細かいことを気にする神経質な人に多いようだ。少なくとも泥棒に入られて警察呼んで「いい話のネタができた〜」と喜んでいるような人間には当てはまらないと思った。
正午を回ってからネット上で半年ほど顔をあわせていない友人と再会した。この場合「再会」という表現が正しいのかどうかわからないが、自然と口をつくということはそういう時代の流れなのだろう。その後は例によって駅前のカフェ・ドュ・モンドでアイスカフェオレとレタスドッグを食べながら本を読む。
その後は渋谷に出て、Bunkamuraザ・ミュージアムで昨日から始ったギュスターヴ・モロー展に行ってきた。見たかったのは「一角獣」と「出現」だったのだが、それ以外にも絵の前で浸れる作品ばかりだった。一昨日のフィリップス・コレクション展を5とすると今日のモロー展は20ぐらいかな・・もちろん好みにもよると思うが。全体的にギリシャ神話やキリスト教をを題材とした作品が多く、ヘラクレスやプロメテウス、レダなどおなじみの英雄、神々のほかにいままで気にもとめなかった神々の名前が出てきた。レダが白鳥と戯れる絵がいくつかあって、僕の中のギリシャ神話ではレダに白鳥となって近づいたのはゼウスという記憶だったが解説では別のユピテルという解釈になっていた。
家に帰ってネットで調べたら、ゼウスもユピテルも(勿論ジュピターも)表記の違いで同一人物を指すということだ。こうして僕の中でギリシャ神話とキリスト教への興味は再び増していき、部屋の隅で眠っていたギリシャ神話の本を再び手に取る。さらに今読みかけの本は、白血病からキリスト教によって18世紀まで続いた魔女狩りまで幅広いテーマをミステリーの題材として取り入れている。そんなわけで気がつくと「魔女狩り」の歴史などをネットで調べたりしている。こうして好奇心が尽きない限り、興味の対象は永遠に広がる。そして時間はいつだって足りない。にもかかわらず僕は多くの時間をお金を稼ぐために費やしている。そんな矛盾につい目を向けてしまう。
とりあえずモロー展はおすすめなので渋谷で時間をつぶしたいと思った方はぜひ足を運んで欲しいな。
今日はフィリップス・コレクション展に行ってきた。実は遅ればせながら初の六本木ヒルズである。目玉であるルノワールの「舟遊びの朝食」はそれなりに満足、最後にもう一度絵の前に戻って目に焼き付けて来た。他の絵についてはやっぱり人によって好みが分かれるだろうな。キュービズム(※1)のブラックやマルクの強烈な色彩の絵はよかったし、ピカソの「緑色の帽子をかぶった女」もこころに突き刺さるものがあったが、コレクション展よりも一人の画家に特化した展覧会の方が好みかもしれない。そういう意味では9日から始まるモロー展は注目かな。
帰りにまた図書館で本を借りてきた。今回は次の2点。
「図解雑学イヌの心理」
「天才!志村どうぶつ園」という番組の中にイヌと会話できるという女性が出てくる。その女性が飼い主に訴えるイヌの気持ちを聞いていると、人事とは思えない。我が家のイヌはもう3年前に死んでしまったのだが、動物(特にイヌ)の気持ちをもう少し理解できたらいいなと思ったのだ。
「電車に乗れない人たち」
パニック障害のひとたちについて解説している。若干今の自分の症状に似ている部分もあり、せっかくこんな機会で病気に悩んでいる人の痛みがわかるときなのでその知識を深めようと思ってのことだ。
夜、ネットをさまよっていたら缶コーヒーのコミュニティで「どの缶コーヒーがおいしいか?」という議論が起こっていた。僕は大して深く考えもせず、缶コーヒーに味を期待するほうがおかしいという考えで、ジョージアのエメラルドマウンテンか、Asahiワンダののモーニングショット、伊藤園のSalon de Cafeのカフェオレのどれかだったのだが、Dydoのデミタスが美味しいという意見が多かったので、近くの自販機で買って試してみることにした。よくわからなかった。



