毎朝、大宮駅で宇都宮線に乗って終点の上野まで行く。同じ時間の電車で、いつも同じ車両に乗るから、その車両にはよく見る顔ばかり。毎日電車の中で化粧をしている人もいれば、とにかく寝ることを朝の車内の日課にしている人もいる。
さて、最近毎朝、赤羽の駅で一人の女性が乗ってくる。彼女は見た目にはそうとわからないが、妊婦らしく、「お腹にあかちゃんがいます」のキーホルダーがハンドバックについている。彼女が乗ってくるそのドアは優先席のある位置なのだが、朝の電車だからか、座っている人の多くは眼を閉じていて、彼女が席を譲ってもらえるのは、5日に1回程度である。
僕は電車の中では基本的にまず座らないので、彼女に席を譲るなどという機会はないのだが、僕が大宮駅で乗車して赤羽で彼女が乗ってくるまで、僕の周囲では何度も席が空いたり埋まったりしているわけだ。もし座ろうと思えば5割ほどの確率で赤羽までには席が確保できるのだろう。
その事実に考えが至ってふと思った。
僕のように普段座らない人間が、譲るための席を確保するために座る…。そんな親切の形もひょっとしたらあるのかもしれない、と。
多くの人間は人に評価されたがっている。自分が付き合う価値のある人間で、自分が話す価値のある人間であると…。普通に生きて、普段の自然な振る舞いから周囲の人にそう評価されるのであればそれはとても幸せなことで、それこそ才能と言うべきものだが、必ずしもすべての人にそのような才能は備わっていないのだ。
そんなとき人のとる行動によって、人は大きく二つのタイプに分けられると気付いた。人をけなす人、と人を褒める人、である。
人をけなす人の目的は、自分の周囲の人間の評価を下げて、自分の評価を相対的に上げること。一方、人を褒めることの目的は、もちろん単純に人を評価しているのだろうが、一方で、「この人は自分に以外の人間に寛容な人だ」などと評価されるだろう。
どちらが最終的に自分の評価を上げるかは言うまでもない。多くの場合、思春期のころに前者の考え方から後者の考え方へ推移するものだと思うが、不幸にもそのステップを踏まずに大人になってしまった人もいるのだろう。
そういう人は自分の評価を上げようとして周囲の人間を批判しながら、結果として自分の評価を下げていることに気付かずに生きていくのだ。
むむむ、なんか他人事ではない気がしてきた。
最近、新規採用で多くの人を面接している。そんな中驚くのは、みんなしっかり時間どおり面接に来てくれるということだ。もちろん社会人なんだから時間を守るのは当たり前だと、いう人もいるかもしれないし、僕自身もんな考えの持ち主ではあるが、それでもみんながみんな5分前には会社のチャイムをしっかり鳴らすということに少々驚く。
もちろん面接をするのは、インターネット経由で応募された書類を熟読し、「これは・・」と思えたわずか1割程度の選び抜かれた候補者だけなのだから当然かもしれないが、その応募書類はもちろんすべてメールやインターネットというデジタル媒体である。
僕が言いたいのは、「手書きじゃないと気持ちや人間性は伝わらない」という意見を言う人がときどきいるが、そんなことはないということ。デジタルの世界でも、文章の紡(つむ)ぎ方、返事のタイミングなどで、その人の人間性は強く伝わってくる。少なくとも、今回応募書類で僕を魅了してくれた人々はほぼその期待を裏切らないふるまいを見せてくれている。
見たまんまかもしれないが、実はわりと年中泣いている。
最近のヒットはやはりアフラックのCM。闘病の末に幸せを掴んだフィギュアスケート選手、井上怜奈さんの話。30秒CMだけでも十分泣けるが、サイトに行ってその物語をゆっくり読むともはや涙は止まらない。
我が社もようやく男だけの職場から脱して女性社員を採用することを検討している。しかしだ、このむさくるしい職場。このままではたとえ採用したとしてもそう長くいついてもらえるとは思えない。そこでいくつか社内のルールを変えることにした。とりあえず案としてあがっているのはこんなこと。
・トイレのフタは必ず閉める
・トイレットペーパーの端は三角に折る
・ネコの食べ残しが床に散らばらないように餌置きを変える
社内が基本的に靴を脱いで過ごす職場なだけに、清潔面に関する問題が大きそうだ。そもそも女性は職場に何を求め、何をもっとも忌み嫌うのだろう。普段女性と接点のないような男性ばかりなだけに、試行錯誤の日々が続きそうだ。
早いものでビリヤードに真剣に(ある程度)取り組み始めてから半年が経った。時々モチベーションが下がってしまうこともあるし、腰が痛くてビリヤードすら億劫なときもあるが、基本的には平日夜のビリヤード場の雰囲気が好きだ。
平日夜のビリヤード場は、大半が一人で練習に来ている人で、みんな淡々と球を撞いている。(もちろん何人かはすでに顔見知りらしく、9ボールで勝負したりもしているが。)
世の中では、仕事帰りは居酒屋で一杯やりながら会社の愚痴や人の噂話をしてストレスを吐き出す。そういう人が多数派を占めるのかもしれないが、ここは少しでも上達したい、という空気に包まれている。
いつまでもこういう空気の中で生きていたい、と思う今日この頃である。
(悪い意味で)印象的なドラマのラストシーンは「タイヨウの歌」。沢尻エリカ演ずる雨音薫(あまのかおる)がずっと待ち焦がれていた歌手としての舞台に立つ直前に倒れて、瀕死の状態で山田孝之演ずる彼氏に最後の言葉を伝えるシーン。これが興ざめ。脚本家も死ぬ直前だからいろいろ印象的な言葉を言わせて、視聴者を涙させたかったのだろうが、あまりに長すぎる会話に…誰もが「まだ全然大丈夫そうじゃん。」と思ったにちがいない。ドラマとしての不自然さを際立たせただけでなく、たくさんしゃべらせすぎたために、結局何を伝えたかったのだかはっきりしない。言いたいことがたくさんあっても本当に伝えたいなら、伝えるべきことは可能なかぎり少なくすべきなのだ。
デザインにおいても同じ。伝えたいことをたくさん画面に配置すぎると、結局何が言いたいのかわからなくなる、細かいことは、興味を持った人にだけ伝えて、最初はせめて1センテンスか2センテンス程度に抑えたいもの。最近、自分の気に入っていたデザインがクライアントの要望を素直に聞くがゆえに、徐々に目も当てられなくなっていくジレンマにたびたび襲われる。
だからこそこんなことを考えてしまったのだろうが、考えてみれば「言いたいことは絞る」というのはすべてにおいて共通するのだろう。口数の多い人が何か重要なことを言うより、口数の少ない人が言ったほうが重要に聞こえる。スラムダンクで流川(るかわ)が発する言葉に名言が多いのもそのせいだろう。
名言だ…。
住居を兼ねたオフィスは18階にあり、そのビルには2基のエレベーターが備え付けられている。
この2つのエレベーターには実はいくつか違いがある。
片方は背面の壁についている鏡が床から天井まで伸びているが、もう片方は腰よりうえの高さから天井までとやや短い。きっと、大きな鏡のほうは車椅子利用者のためのエレベーターなのだろう。扉の横とは別に、横河の壁の低い位置にもコントロールパネルが取り付けられている。ちなみにどちらの鏡も手をつけると鏡に映った手と隙間があくことがない。つまりマジックミラーということだ。
さて、気になるのはもう一つの違い。こんなの誰も気にしないだろうが、鏡が短いほうのエレベーターは行き先のフロアナンバーが振られたボタンを押して点灯させ、そこからさらに2回押すとキャンセルできるということだ。
キャンセルできるエレベーターが存在するのはもちろん知っていたが、同じビルのエレベーターの片方にキャンセル機能があって片方にキャンセル機能のない理由がわからない。車椅子利用者は目的階を変更してはいけないということか?
デザイナーはデザインする際に少なからず自分のデザインに慣れてしまう。ここで言う「慣れる」とは決して良いことではない。経験が浅い人ほどその傾向が強く、多く経験を積んだ人ほど自分のデザインを客観的に見ることができるだろう。
「自分のデザインに慣れる」とは具体的にどういうことかというと、たとえば白地に黒い文字を置いたとする。真っ白の背景に真っ黒の文字を置いたらコントラストが強すぎるので、すこし灰色にするのだが、長くその文字を見ていると目が慣れてきてだんだんその文字が濃く感じてくる。そこでもう少し薄い灰色に変える、それを繰り返していって、気がつくと信じられないような薄い色で文字を書いていることがある。
そして、たとえばインパクトの強いオレンジを背景に強いたが、その前でデザインしているうちにそのオレンジに慣れてしまい、出したかった「インパクト」があまり表現できていないように感じてしまう、そこでさらにオレンジを強くする、ということを繰り返して、結果、目も当てられぬようなドギツイ色になってしまったりする。
ここまで極端ではなくても似たようなことはしばしば起こる。そして、こういう意図しないデザインをクライアントに提出してしまうのを避けるため、デザイナー達は期日に余裕があるなら、デザインが完成してから1日置いて、もう一度そのデザインを眺めるようにしている。そうするとだいたい「あ、色が強すぎるな・・・」とか「色のバランスが悪いな」とか自分のデザインを客観的に、よりクライアントに近い目線で目線で見ることができるのだ。
だから、いいデザインを提出してほしいなら決して期日を短くしてはいけない。
最近、英会話の勉強を通じていろんな人と出会う機会がある。そんな中で思うのは、自分の費やしたお金と時間に対して、それに見合う利益を当然のように得られると考えている人が、世の中には多く存在するということだ。
たとえば、英会話の勉強のために大手英会話教室に通っている人がいる。彼が言うにはもう2年以上通っているということだが、その発音はどう聞いても日本語のカタカナにしか聞こえない。彼がどれぐらいの頻度でその教室に通っているのかはわからないが、週に何時間か、そして月に何万円かを費やしていて、彼はその費やした時間とお金に比例して、英会話能力を得られると信じているのだろう。
また、過去海外にホームステイした経験のある人と話すことも多い。オーストラリアで1年間ホームステイをしていた人の話す英語は語彙も発音も正直いまいち。1年のホームステイの英語の上達なんてそんなものか…と思ったが、その後、別の機会に11ヶ月ベルギーに住んでいた人と話す機会があって、英語の美しさに驚いた。「たった11ヶ月でここまで上達するものなのか、と」
きっと、オーストラリアの彼女は、1年間という期間に見合う英会話能力を当然のように得られると思ってその1年を無計画にオーストラリアで過ごしたのだろう。
これは日本人独自の文化なのだろうか。答えはもはや明確だが、費やしたお金と時間に見合うメリットなどその人の気持ち次第で何倍にもなるし時には逆にゼロにもなる。
英会話教室に通っているなら、行くたびに知らない単語に出会うことだろう。きれいな発音を耳にすることもあるだろう。そういう刺激を自分の中でどうやって処理していくか、それを常に考えずに英会話教室のメリットなど教授できるはずもない。オーストラリアの彼女もまた同様である。街へ出るだけでたくさんの英会話の機会があったに違いない。それでも日本人だから英会話のコンプレックスという障壁を越えられずにひきこもっていたのかもしれない。
お金と時間、それをどうやって、いかに効率的に使うか常に考えて使わなければ、無駄に費やすだけである。あたりまえなことなのだが、実は意外と多くの人にこれができていない。
北京オリンピックがいよいよ来週に迫ってきた。チベット問題、SPEEDO社の水着、そして環境問題など今回のオリンピックはいつも以上に話題に事欠かない気がするのだが、個人的に印象深いのは砲丸の球の話。
砲丸投げで、多くのメダリスト達に支持される砲丸は、実は埼玉県富士見市の町工場で作られていて、その砲丸を使うか否かによって記録が1メートルも変わるという。なぜかというと、その砲丸は重心が中心に限りなく近く、そして形が限りなく球に近い、まさに日本の職人の技術あってこそできるものだからなのだそうだ。
しかし、今回その町工場は、北京オリンピックへの砲丸の提供を拒否している。さまざまな日中問題(2004年アジアカップの日本大使館投石運動など)に対す中国政府の対応への抗議がその理由だそうだ。だから今回、砲丸投げでは世界新記録が出ないと言われている。
「スポーツと政治を混同するな」という意見も出るのだろうが、僕はこの町工場の決断を支持したい。特定の個人を攻撃したり、スポーツの公平性を損なわせるものならばもちろん受け入れられないが、今回のように、平和に向けたものならあってもいいと思うのだ。(「平和へ向かう方向」が視点の位置によって異なって見えるであろうことももちろん理解している)。
とりあえず僕が今回書きたかったのはこんなこと。
「力」…ここで言う「力」は「腕力」や「権力」ではなく、「技術」や「知識」を指すのだが、「力」は、研ぎ澄ませば、やがて大きな発言力となって世界を変えられるのかもしれない。たとえそれが小さな町工場だとしても。そしてきっと、名も知れない1個人だとしても、である。
世の中をいい方向に変えられるような「力」を、自分の中に蓄え、日々、研ぎ澄ましていきたいものだ。
「姿勢は意思の強さを表す」、そんな考えだから姿勢のいい人にはついつい目がいってしまう。そんな僕の人生で、特に印象に残っているのが5年ほど前まで同じ職場で働いていた女性。一日中パソコンの前で過ごす仕事でありながらも彼女の背中は背もたれに触れることがない。かといってもちろん猫背になるわけでもなく背中の曲線は常に天に向かったS字をキープ、それゆえに彼女からは強烈なオーラが放たれていた。
さて、最近腰が痛くてスカッシュもフットサルもできないでいる。ここ1ヶ月でやったスポーツは駅へのダッシュと週に1,2回の水泳のみ、なんとも不健康な生活になってしまったものだ。スポーツ以外にもやりたいことはいろいろあるとはいえ、やはり人生の大部分を占めていたスポーツの時間がないのはさびしいもの。そこで藁をもつかむ思いで整体に通いだした。
ゴキゴキッと気分のいい音を鳴らしてくれるやや強面の先生が腰を傷めない座りかたを教えてくれた。
「こうして、腰をもっと前につきだすように…そう。この姿勢」
それはまさに、彼女のあの姿勢。なるほど、理論に意思の強さが加わってこそ強烈なオーラが放たれるのだ。
先日、いつものように朝の上野行きの列車を待っていた。通勤のピークは過ぎた時間とはいえ、ターミナル駅なので人は常に多い。上野行きの電車が到着してドアが開くと同時に大量の人が流れ出る。そんななか中年の女性だっただろうか。ドアからまっすぐ進んでそこで倒れてしまった。
近くにいた一人の女性が駆け寄って、つられたように他の2人ほどの男性も近づいていく。言い訳もなにもできないほどに僕はなにもできず、車内に駅員に異常事態を知らせるボタンがないか探したが、どうやらあれは田園都市線(もしくは東急線全体)にのみあるもののようで、見当たらない。見当たるのは緊急時にドアを開くためのコックの案内ばかり。というわけで結局気にはしながらもその電車に乗って会社を目指す。
よく都会の人間の冷たさを表して言う言葉。「みんな知らんぷり」。これを言う人って、一体何人の人が助けようとしてくれたら満足なんだろう。その時、その事態を目撃した人が全員が手伝おうとしてもやはり混乱するだけだろうし、理想は5人ぐらいなんだろう。そして5人が一生懸命助けようとしても、やはり全体的に見れば「みんな知らんぷり」という状態に変わりはない。今回は僕も確実に「みんな」に数えられた。
こういう状況を目の当たりにしたとき、AED講習受けに行きたい、と思う。
先日読んだ本の影響がまだ残っている。文房具屋の万年筆コーナーでアルバイトをするその本の主人公は、万年筆を買おうとした客が試し書きをする文字が、その人の個性を表していてとても面白いのだという。
そこで自分についてもシミュレーションしてみた。自分が人前でペンの試し書きをするとしたらどんなことを書くだろう、もしくはどんなことを書いたらちょっとかっこいいのだろうか?
試し書きなんだからやっぱり一文字ではなくて、少なくとも二文字、できれば四文字ぐらいがいいのだろう。「一石二鳥」?…なんかケチっぽい。「春夏秋冬」?…個性もなにも感じられない。「努力」「根性」?…どう贔屓目に考えても自分のキャラクターにそぐわない。「花鳥風月」…意味分からん。「愛」…いや、勘弁してくれ。
堂々巡りが続くので、じゃあ自分の好きな漢字はなんだろうという視点に立って考えてみると、そうするといくつか思い当たる「織」「瞬」「夢」「必」「海」「時」「彼」「穂」「秋」「撃」「為」……しかし、どうあがいても言葉が生成できない。「組織」「瞬殺」「初夢」「必殺」………。
今年の宿題にしよう。
日本について知るには、日本以外で育った人に日本について聞くのが一番だと思っている。そういう意味で、毎週土曜日にBSで放送されている「CoolJapan」は非常に興味深い番組である。
毎回、日本で生活している外国人と日本人の司会者で日本の文化について議論する。いつも新鮮な意見が飛び出し、大抵は日本に好意的なものばかり。例えば、時間通りに走る電車はすばらしい、とか。日本のお店の店員は商品を買わなくてもとても親切、とか、日本の家電量販店はいるだけでとても楽しい、などである。
昨日放送された番組は「日本の鉄道」がテーマで、そん中でとても印象に残ったのがこんなこと。
日本では電車の中で忘れ物をしても大抵見つかる。他の国では「ラッキー」とばかりに誰かが持って帰ってしまうのが当然だから日本人ってすごい親切なんだなと思う。しかし、なぜか電車の中で年寄りが立っててもみんな寝たフリをする。電車の中で忘れ物をしたらまず戻ってこないブラジルでさえみんな席を譲るというのに。
外国人からみると、普段親切な日本人が、なぜ席だけは譲らないのかが理解できないのだという。
これはどういうことなのだ?、単にシャイなだけなのか?
会社帰りに空を見上げるとなんとも綺麗な星。夏も近づいた、しかも梅雨のまっただなかのこの時期にここまで空が澄んでいることはめったにない。
都会で見える星座などはすべて暗記したつもりでいたが、この時期のこの時間は見慣れない星座ばかり。南の空には、さそり座、いて座、そして木星までしっかりと輝いているのだから、仕事に疲れて地面を見ながらとぼとぼ帰ってきている人たちにはぜひ空を見上げてほしいものだ。
土曜日は夕方からは品川周辺でフットサル。さすがに2時間から2時間半のために、片道1時間半かけて来るのは少し抵抗があるので、土曜日の午後にもうひとつ、英会話サークルに参加することにしている。
そうなるとその間の時間は品川近辺で過さなければならない。そこで最近発見したのがとあるビルの中のタリーズ、品川駅にはスターバックスが、そして、駅前にはエクセルシオールカフェが、駅周辺でカフェを探す多くの人がそのいずれかに目を奪われて、さらに先の、しかも土日の閑散としたオフィスビルの合間にあるタリーズコーヒーには気づかないのか、だいたいソファの席がキープできる。
そんなわけで、最近はタリーズでハニーミルクラテを飲みながら、1時間半ほど読書するのが土曜日の午後の過ごし方のひとつ。カフェや喫茶店での読書ほどはかどる時間はない。
仕事が遅くなったために、最寄り駅の前のドラッグストアはすでにシャッターが下りていた。仕方がないのでスポーツクラブの自動販売機で150円出してDAKARAを購入。とりあえずストレッチしながらぐびぐびっと。むむむ・・・味が違う。よく見ると今までなかった「カロリーオフ」の文字が…、ついでにデザインも変わっている。はっきり言っておいしくない。多くのスポーツドリンクがカロリーオフを謳う中、その流れに逆らうように甘さを保ったDAKARAの味が好きで愛用していたというのに。
そもそも世の中のカロリーオフドリンクの多さを歓迎している人ってどれくらいいるのだろう。多くの場合カロリーオフの飲み物はカロリーオフでない飲み物よりも味が落ちる。にもかかわらず、世の中にこれだけカロリーオフの商品が溢れるのは、その需要が多いからだろう。
しかし考えると妙だ。そういう人たちはつまり、同じお金を出して、美味しいものよりもまずいものが飲みたいということか。喉が渇いたけどカロリーが摂りたくないのであれば水を飲めばいい。「水にはない成分がスポーツドリンクにはある」というのなら、その成分を言ってみて欲しいものだ。ここで「100ml中に含まれる食物繊維0.4gとマグネシウム6mgが大切なの!」と答えられる人がいるなら素直に納得するだろう。
先日、携帯大手のドコモが新しいロゴを発表した。正直あまりかっこいいとは思わないのだが、ひょっとしたら時間の経過とともに慣れていくのだろうか。そんなこともあって少しロゴについて語ってみたくなった。
企業のロゴはここ数年で大きく変化したように思う。2000年以降に立ち上げられた企業のロゴの大多数には、複数のカラーやグラデーションが施されているのではないだろうか。これは、ソフトウェアなどのデザイン環境の普及によってのせいだろう。そうやってグラデーション処理などが施されたロゴは、非常に新鮮で、その企業は何か新しいことをやってくれそうな印象を受ける。
しかし、それは優れたロゴと言えるのだろうか。
グラデーション処理や、異なる色を隙間なく重ねてこそ個性的なロゴは、当然のことだが、白地にカラーという印刷物でしかその魅力を発揮できない。しかし、ロゴとは、製品や印刷物など、その企業に関連するあらゆるものに印刷されて他社のモノとの違いを明確にするためのもの。時には単色で、時には黒字に白抜きでも個性を発揮してこそ、ロゴの役割を果たしているといえるのだろう。
だから、伝統ある企業のロゴは必ず、フルカラーのパターン、モノクロのパターン、白抜きのパターンなど、複数のパターンが用意されているのだ。そして、長い間愛されるロゴというのは、往々にして単純な図形の組み合わせであることが多い。
個人的に好きなのは、三井住友銀行のロゴ。

今でも一塁へのヘッドスライディングを美学とするプロ野球選手がいるという記事が印象に残ったせいだろう。僕はときどきこのフレーズを使う。
野球において、一塁へヘッドスライディングをするよりベースを走り抜けたほうが速いことは知られているし、それは科学的にも証明されていることだ。しかし、それでもヘッドスライディングをする選手がいるという。確かに少しでも早くベースにたどり着きたいという思いから、手と頭からベースに突っ込む気持ちもわからなくはない。しかし、走り抜けたほうが速いという事実があるにも関わらず、ヘッドスライディングという選択肢を取る行為は、試合に勝つための最大限の努力をしているといえるのだろうか。
似たようなことは普段の生活の中でも起こりうる。例えば仕事において、抱えている作業が多いからといって徹夜で仕事をして、その後2,3日の作業が眠気のせいで滞るのであれば、それはまさに一塁へヘッドスライディングをするようなもの。
人それぞれ多くの考え方があるだろうが、目の前の結果に目を奪われて最終的な結果のための最善の方法を知りながら放棄するような行動を僕は評価しない。
ユニフォームを汚したり、「眠い」と繰り返しながら仕事を続けるような行為で褒めてもらえるのは、「結果」より「過程」の評価を求める甘えた考え方。「頑張ったんだから褒めて…」「一生懸命やったんだから認めて…」そんな考え方で評価されるのは浅はかな考えと乏しい知識しか持たない、せいぜい小学生までの話だ。
僕らは学ぶべきことを学び、深く考える知識を持った大人なのだから。
会社で新しい人を採用しようと考えたときのことである。実力重視で選びたいのはもちろんなのだが、履歴書と面接と過去の実績や作品でその実力を正確に把握しようとしてもそれは無理があり、では、明確な尺度として何を重視して判断するのが、実力のある人間を採用するための最善の手段なのか、ということを話し合った。結果、「学歴重視」で意見が一致した。
WEBクリエイターなのに「学歴重視」。少し妙な印象を受けるかもしれない。確かに「過去の実績重視」という考えもないことはないのだが、WEBクリエイターとてアーティストではない、現在もっている技術だけで満足されても困る。
日々、世に出てくる新しい技術に対して常にアンテナを張り巡らし、自分の技術に取り入れる努力を怠たらないのは当然であり、さらにその労力をすぐに仕事に反映できる、努力の効率性を兼ね備えて欲しいもの。そんな一言で言うと「優れた人材」がどこに多く存在するかと考えたとき、やはり「高学歴」の中から探すのがてっとり早いだろうという結論である。
もちろん、学歴のない人の中にも優れた人材はいるし、高学歴の中にも使えない人間はたくさんいる。しかし、採用活動というのは、労力がかかるのだから、他の仕事と同様に費用対効果を考えて、もっとも効率の良い方法を選択しなければならない。であれば、確率的に「優れた人材」の存在確率の高い「高学歴」という集団に目を向けるのはむしろ当然の流れなのだろう。
伝統ある大きな企業はともかく、うちみたいな小さな会社でさえ学歴を重視するのだから、やはり学歴はあるにこしたことはないのだろう。将来、下の世代の人間に「学歴って必要?」と聞かれたら「とりあえずあって損はないよ」と答えるとしよう。
とはいえあくまでもこれは確率論である。個人的な経験則からいって、その確率の違いは、一般には20人のうち1人いるかいないかの「優れた人材」が、「高学歴」に絞れば20人のうち3人程度に増える程度で、しょせん、低い可能性であることに変わりはないのである。
最近、日曜日の午前中は英会話倶楽部に顔を出すようにしている。結構大きな組織らしく、一応参加表明はウェブからフォームで送らなければならない。
いつもは前の週の月曜日には出席表明をするのだが、先週は仕事や遊びで、木曜日になっても出席表明をするのを忘れていた。すると木曜日の夜から突然風邪をひいて、日曜日まで寝込むことになった。これはただの偶然だろうか。それとも自分がどこかで風邪をひくことを予感していたから出席表明をするのを躊躇(ためら)っていたのか。
自分は思うんだ。出席表明をしなかったから風邪をひいたのではないかと。言い換えるならこういうことだ。「人との約束を破りたくない」という気持ちが、健康を維持するということってあるのではないだろうか。
良くも悪くも心と体は常に影響を及ぼし合うのだから。
品川駅で時間をつぶす必要があったので駅のスタバへ。ところが満席。自分のようにタバコの煙の嫌いな人間以外にとってはとりたてて居心地のいい空間ではないはず。それなのになぜスタバは支持されるのだろうか。
多くのフードチェーンは利益向上のために回転率を上げようとする。多くの人が空間に求める居心地のよさは回転率を下げるため、必ずしもそのフードチェーンの利益に繋がらないのである。つまり、「居心地の良さ」と売り上げは微妙に相反するのだ。そこでスタバスタイルである。渋谷の交差点の上。大宮駅コンコースの上。品川駅コンコースの上。せわしなく行き交う人を見下ろす位置に店舗を構える。
スタバが提供するのは「居心地のよさ」ではなく「優越感」である。そして、「優越感」に浸りたい人間のなんと多いことだろう。
しかたなく品川アトレのカフェへ。禁煙席に座ったものの、4メートルほど離れた位置にあるスツールがなぜか喫煙席…モクモクモク…つらい。
母が「寝る前に灯りを消すように」と繰り返す。
いやいや、何度も言っているが、立ち上がって灯りのひもを引っ張るぐらいの元気があったら起きてるっつーの。そんなに元気あるのに眠ってしまったら時間がもったいないじゃないか。それができないくらい眠いから眠るのに、その状態でひもをひっぱるなんてできないって…
美的センスといわれるモノに関して、世の中には3種類の人間がいる。
1.クールなものをつくることができる人間
2.クールなものは作れないが、クールなものをクールだと思える人間
3.本人がクールだと思っているものが、大部分の人間から見るとそうでない人間
3の人間が仕事の中に一人でもいると……つらいんだホント。
「そんなことして何が面白いの?」
こういう台詞を吐く人間は決して少なくない。そしてこの台詞を聞いた瞬間に、その人の僕の中でのランクは確実に下がっているのを感じる。「あぁ…この人、先入観で自分の世界を狭くしているんだろうな」と。
実際に、その事柄を面白いと思わないからそういう発言をしている人もいるのだろう。しかし、大部分の人は、実際には興味を持ちながらも、その事柄について知らないということを人に知られるのが嫌だから、「私はそのことに興味がないから知らなかっただけで、決して視野の狭い人間ではない」という人間を演じ、本人もそう思い込むことによって自尊心を守っているのではないだろうか。
どちらにせよ、その人はこの台詞によって、一つの物事に接する機会を大きく逸したことに変わりはない。そしてそういう生き方を繰り返すうちに人間関係も視野も狭くなっていくのだろう。
僕はこう思うのだ。誰かが好んで取り組んでいる物事なら、そこには必ず何かしらの「面白さ」が存在する。しかし一人の人間が与えられた人生の時間など限られていて世の中のすべての物事に取り組むことも、世の中のすべての場所に行くことも世の中のすべての人と話をすることも不可能で、その多くを諦めざるをえないのである。
だから、「そんなことして何が面白いの?」などと言う前に少し耳を傾けてみよう。少なくとも当てずっぽうで何かに取り組んだりするより、高い確率で面白い物事に出会えるかもしれないのだから。
「ほかの人が当然のように知っていることを、自分が知らないのが恥ずかしい」と思う人もいるのかもしれない。しかし、AさんとBさんという2人の人間がいたら、必ずAさんの知らないBさんにとっての常識があり、同じように、Bさんの知らないAさんにとっての常識が存在するのである。
自分の知らない文化や、初めて聞く話、そういうすべてのものに興味を抱き触れてみようとする人間こそ、魅力的であり一緒にいて楽しいと存在だと思うのだ。
とある企業のポスターを作成する際、大量のモデルの画像と見つめ合う時間があった。
モデルの女の子だから、当然現実に向かい合えば可愛くキレイな女の子たち。しかし、ポスターにしようと思ってそれらの画像を見てみると、多くの場合いろいろ気になる部分が出てくる。ホクロが多い、髪が乱れている、服が安っぽい、目が死んでる、笑顔が固い、肌ツヤが悪い、などである。もちろんプロのカメラマンが撮ったものだから、撮影時にもそれらの注意をしながら撮影したものだろうし、ホクロなんかは画像補正でなんとでもなる部分ではあるのだが、一方で全く補正しないでも使えるような写真写りのいいモデルもいるだけに、「この違いはなんなのだろう」と考えてしまう。
とりあえず思うのは、写真になったときに魅力的に写るかどうかは、その本人の容姿の善し悪しとは、世間一般的に思われているほど関係がないということ。どこにでもいる普通の女の子がファインダーを通して平面の世界に存在を移した途端にものすごく魅力的に変貌したり、逆に普段とても魅力的な女の子がファインダーを通した途端にまったく魅力のない人間に成り下がったりする。
テレビに出始めての頃には素人同然だった初々しい芸能人が、時が経つと共にキレイになっていくのは、きっとテレビカメラへの自分の映りかたを理解していくためだろう。写真も同じで、自分の写りかたを理解することで改善できる部分はあるが、それでもどうしようもない「写りかたの才能」というモノが存在するように思う。
普通に生きていれば「可愛い」とか「キレイ」とかもてはやされたはずの彼女たちは、彼女たちが浴びてきたその「可愛い」「キレイ」が通じない平面の世界へまで、何を思って存在価値を見出そうとするのだろう。
僕が渡り歩いてきた10人規模の小さな会社の経営者たちは、新しい人を雇う際には決まって、判断力、吸収力、応用力といった能力を重視していた。もちろんデザイン力、企画力なども必要だが、それだけでは長く高いパフォーマンスを維持できるはずもないのである。
すでに大きく成長した大企業と違って、発展途上の小さな会社では、社内の環境も、作業の流れも、社内ルールも常に変化を強いられる。となるとそれにすばやく適応し、目の前の作業だけでなく、それが会社のポリシーに反しないうえで利益に繋がるのかを考えながら仕事ができなければならないのは当然である。また、業界的にも新しい技術がどんどん世に出てくるだけに、元々持っている知識や能力で満足しているような人間は2,3年もすれば「使えない人間」に成り下がるのである。早い話、小さな会社はいつだって「常に考えることを怠らない人間」を求めているのである。
そんな採用ポリシーを持っていたから、時にはハズレの人材を雇うことはあっても、僕が過去所属していた会社は、全体的には「判断力、応用力を備えた、考える人間」の集団となっていた。
しかし、経営者たちも人間だから完璧ではない。明らかに効率の悪いと思われる方法での作業を指示したり、給与明細を給料日までに渡しそこねたり、始業時間を守ることを社員に求めながら、遅刻社員になんのお咎めもなかったり、寝る暇もないほどの仕事を与えながらもさらに営業向けの勉強を強いたりと、時には明らかに非のある行動をしたりする。
そうなると「常に考えることを怠らない人間」である社員たちは黙っていない。
「会社が給与明細を給料日に渡さないってことは、俺たちも仕事を納期に間に合わせなくてもいいってことですかね?」
「始業時間守らなくてもなんのお咎めもないなら、明日から俺も遅刻して来るようにしますね。」
「俺たちに勉強を強いる前に、もう少し経営者として社内の状況を把握する勉強をしてください。」
そういうときだけそんな経営者たちは思っていたはずだ。
「言われたことを黙ってやってくれる社員がいい」と。
毎朝の電車。最寄駅から最初のターミナル駅である大宮駅までは6分程度。毎朝の通勤区間の中で都心からもっとも遠く離れたこの路線がもっとも混んでいるのは、東京通勤圏ぎりぎりで生活する以上避けられない運命なのだろう。
大宮駅に着くと、そこから乗換までに4分程の猶予しかない。周囲の人の歩く速度に合わせていたらまず間に合わない。とはいえ走るスペースもないし、やや危険。人の足の動きに注意し歩く速度の緩急を使い分けて人と人の間をすり抜けていかなければならない。
さて今日もいつものように電車を降りると歩く速度を速める。私鉄からJRへの乗り換えのため、首に提げていた定期券入りのケイタイを左手に持ち変える。歩く速度に影響を与えないように、ケータイを持った左でも右足と同期し続ける。
数人を抜き去ると、前を女子中学生2人組みの壁が出現。2人連れは位置の前後がずれないから隙間が空きにくい。それでも強引に中央を抜けるか、それとも左か右に迂回するか…しばし思案する。そこでふと、とんでもないことに気づいた。
ひょっとしてこの状態。ケータイカメラでスカートの中を盗撮しようとしているように見えるのではないか……ああ、通勤のときに何が恐いって冤罪が恐い、カワイく弱い者の味方をする社会が怖い。「あいつは痴漢だ」と言えば自分の考えも持たずにとりあえず同調しようとする日本人が恐い。
母がSuicaを失くしてしまったという。
「落し物で届いているんじゃない?」
というと
「Suicaなんて自分のものだって証明することできないじゃん」
と反論された。
いやいやそんなことはない、確かに定期の機能を載せていないSuicaには名前などの個人情報は一切ないが、何月何日にどこからどこへ乗車したか、どこのコンビニでSuicaを利用したかが詳細に記録されているのだ。それはもはや本人にしかわからないのだから、十分証拠能力はあるだろう。問題があるとすれば、警察が落し物の持ち主の照会にそこまで時間をかけるかということだ。……恐らくしないだろう。
もしSuicaの落し物が、親切な人の手によってJRの窓口に届けられたなら、JR職員が記録を照会して、その持ち主が頻繁に利用している駅の窓口までそのSuicaを送る、なんてことも可能だが、そんなことも恐らくしないだろう。
スカッシュやサッカーなどのスポーツをこれからも辞めるつもりはないが、年齢とともに、いずれ自分の思い通りの動きができなくなる日が来るのだろう。そしてそんな日を迎えてから「俺は昔はすごかったんだぜ…」というような発言を繰り返す人間にはなりたくない。
となるとそろそろ一生楽しめるような生涯スポーツへの取り組みも開始すべきである。ということで半年ほど前から候補に挙がっていたのがビリヤードと社交ダンスだった。何かを新しく始めるとき、それは新しい人間関係を築くチャンスでもある。どちらが目的でどちらが手段なのかは自分の中でも常にあいまいだが、とりあえず先日都内で活動しているビリヤードサークルに参加してこんなアドバイスを受けた。
「ビリヤードは一人で定期的に練習しないとうまくならないよ。」
まあ、そりゃそうだろう。頭では理解していたが「一人で練習」というものがなぜかハードルが高く感じて、今まで実現できずにいたのだ。
とはいえ、この刺激を自らの行動力に変えるべく、職場、自宅近辺のビリヤード場を調べてホームコートを検討し始める。いくつかあった候補地の中から厳選するために、と最初に立ち寄ったバグース大宮店。ビリヤード場というのは、もっと煙草臭いイメージがあったのだが、改装してダーツの数を増やしたバグースは非常に清潔でいい雰囲気。これなら仕事帰りに通うのも無理なくできそう。
とりあえず月曜日はビリヤードの日。
先日、ネット上で知り合ったイギリス人の友人に英語の表現について尋ねていた。彼は言った。
「ははは、そんな英語はないよ。確かにあってもよさそうな気もするけど、でも多言語を勉強するときに勝手に言葉を作っちゃうのはよくあることだね。」
彼の母国語は英語で、日本語も北海道にいたことがあるので話すことができる。
「へえ、じゃあ君も、変な日本語を作っちゃったりしたの?だったら聞きたいね。」
彼は言った。
「中丈夫、小丈夫」
「へ?」
「いや、『大丈夫』で『大』があるなら『中』と『小』もあるのかなーって思っててね」
小丈夫…これはきっと死にそうなときに使うんだろうな。
クリエイターの宿命で転職回数は必然的に多くなる。そして、過去所属した会社の中には、いいところもあれば悪いところもあり、完全に満足する環境の会社なんてもちろんないのだが、今後の教訓的な意味も含めて、そんな中の一つを書いてみたくなった。
5,6年前に勤めていたとある会社。そのときは採用やら社長のコネやらで社内で働く人間が突然3,4人増えたりした。会社は18時が定時で、残業代など当然出るはずがなく、それにもかかわらず、多くの作業と、突如として入ってくるクライアントの要望への対応などで、みんな22時頃まで働くのが常と成っていた。そんな中、入ってまだ2,3ヶ月程度の女性が19時頃、僕に聞いてきた。
「自分の仕事終わったんですけど何か手伝うことありませんか?」
そう、なぜかその当時、その新しく入ってきた人たちが作り出した雰囲気なのか、「仕事を終えたら他の人を手伝うのが当然」みたいな空気が漂っていた。それがすでに定時を過ぎているにも関わらずである。
「ああ、自分の仕事終わったんならさっさと帰れば?」
僕はいつだってそう言う。しかし、中にはこれ幸いとばかりに自分の仕事を手伝ってもらう人間もいて、そういうことが繰り返されるうちに予想通りのことが起きる。
それから数週間後の残業時間(もちろん残業代は出ない)。明らかに仕事ペースを意図的に落としていると思われる女性を発見。疲れてペースが落ちているのではなく、明らかにもう仕事がないにも関わらず仕事をしているフリをしている。彼女がやっていたのはその日のうちにやらなければならない仕事でも、その日にある程度こなしておかなければ見通しが立たない仕事でもなんでもない。
そりゃあそうだ、仕事を早く終えても他の人を手伝わなければならないなら、自分のよく分かっている仕事を自分のペースでみんなが帰り始めるころまでやったほうが、他の人に命じられた仕事で予想以上に遅くまで残業するよりマシなのだから。その結果。仕事に余計な時間をかける空気が新しい人たちの間に明らかに蔓延。
「早く終わらせれば早く帰れる」
これを徹底することが、社員に仕事をスピーディにこなすためには必要なのだ。
ちなみに、どうしても一人で納品期限までに仕事が終わらなければ、それはその仕事の担当者が自らヘルプを求めるべき。当人のスケジュール管理能力の欠如である。
3月から出勤日が増えるのでモバイルスイカに定期券を追加した。学生時代以来の久しぶりの長距離定期券。考えてみれば学生時代は4年間大宮から横浜まで通っていて、その時の定期券は大宮、浦和、川口、赤羽、池袋、新宿、渋谷と県内、都内のターミナル駅を網羅。非常に重宝した。
当時、千葉方面の大学へ通っていた弟などは休日、自分の定期を借りて都内に遊びに行くことも良くあった。いくら定期券に年齢が記載されているとはいえ、1つしか歳が離れていないから、万が一駅員につかまって「干支は?」と聞かれて、しかも弟が十二支をすべて言えないなどということがないかぎり、その定期券は非常に便利なものであったわけだ。
しかし…ケータイはさすがに貸せない。これが狙いだったのかJR。
ミートホープの偽装牛肉を告発した元社員は、正義を貫くために、社内の偽装の事実を世の中に知らしめた。しかし、その結果会社が潰れて多くの同僚たちに苦労を強いることになったことを今でも悩んでいるという。
世の中は、正義を貫けば救われて、悪事をすれば罰せられるほど単純ではない。自分がそんな立場に陥ったら僕はどうするだろう。犠牲を承知で正義を貫くだろうか、家族や友人のことを考えて悪事に手を染めるだろうか。そんな時、後悔しない行動を取るために必要なのは、豊富な知識と冷静な判断力。これに尽きる。
春に向けて新しいジーンズを買いに行った。ジーンズへのこだわりは何度かここでも書いているが、余計な飾りなどのつかないノーマルなジーンズ(僕が穿くのはほとんどノーマルのブーツカット)は、シルエットの美しさやパッチの形から、Lee(リー)の102かWrangler(ラングラー)の570,770(77MWXZ)しか穿かない。
しかしジーンズメーカーも競争が熾烈らしく、今やどこのジーンズショップへいってもLevis(リーバイス)とEDWIN(エドウィン)ばかり、Lee(リー)とWrangler(ラングラー)のジーンズを買おうと思ったら、町田のマルカワか上野のアメリカ屋まで足を延ばさなければならないのだ。というわけで会社帰りに購入。
今日は買ったばかりのジーンズの穿きにくさを解消するため今日は一日中それをパジャマ代わりに穿いている。
話は変わるがジーンズを穿きこなす女性は魅力的である。スタイルを維持するのに不可欠な「意志の強さ」と「行動力」を併せ持つ、といった印象だろうか。最近しばらくそんな女性には出会ってないが。
怪我のせいで実家に戻ってきたとはいえ、三十過ぎた男がいつまでも親の家に居候しているわけにもいかない。なにより1人暮らしは人生において、しっかり生きていく力を養うための必須教科と考える僕自身が、このような生活にいつまでも甘んじるわけにも行かない。
というわけで、というか、それなのにのんびり物件を探している。僕が生活環境に求める条件はいくつかある。
・最寄り駅に大きな本屋があること
・近所に図書館があること
・最寄り駅にメンズファッション類の揃う店があること
・駅前にパソコン機器の揃う店があること
・近所にスカッシュができる環境があること
・職場にできる限り乗り換えの少なく通えること
・多方向へのアクセスが容易であること
・南向きで日当たりがいいこと
・家賃○万以下
・駅から徒歩10分以内
以下、可能であれば
・最寄り駅もしくは通勤途中にシネコンがあること
以上のことを考慮して現在3地域が候補として残っている、吉祥寺、溝の口、川崎である。慌てる必要ないからじっくり考えよう、などと思っているがこういうのってたぶん期日を決めないと永遠と吟味してそうだ…。とりあえず今はひたすら情報集め。
昨年読んだ本の中でもっとも心に残ったフレーズ。奥田英朗の「サウスバウンド」の中で普段は奇異な行動をしている父親が息子に向かって言った言葉である。
この言葉を聞いても多くの人は、これは建国とか革命とか、動乱の世の中でこそ生きる言葉で、平和な日本に住んでいる僕たちには関係ない、と思うのかもしれない。
しかし、不平等はどんな場所にも存在する。会社の中、サークルの中、部活の中、教室の中。集団があればかならずといっていいほどなんらかの不平等は生まれるのである。
そこで、にこにこ笑顔を振りまいて沈黙しているだけでは決して対等な関係など築けない。求める関係があるなら、今の関係に不満なら、戦わなければならないということだ。
大宮ルミネの新栄堂書店が1月末日をもって閉店した。なんと昭和42年からこの場所営業していたというから驚きである。
通勤途中に必ずといっていいほど立ち寄っていただけに、しばらく本屋難民になりそうである。僕にとって本屋とは2日に一回は立ち寄るべきもの。そうなると今の僕の通勤経路である程度蔵書のある本屋は秋葉原ヨドバシカメラ内の有隣堂か、上野駅構内のBOOK GARDENぐらいだろうか。ヨドバシカメラ内の有隣堂は7Fにあって気軽に立ち寄るにはつらく、上の駅構内のBOOK GARDENは蔵書数がいまいちなうえ、次の電車の発車時刻が目に入ってしまうためになかなかのんびりしてられない。とはいえこの辺で妥協するしかないのだろう。
しかし、何年も本屋に通い続けると本屋の好みもできてくるらしい。個人的には有隣堂や文教堂のような本屋が好みである。スペースと本の積み重ね具合がほど良い感じがする。棚に詰まれた1冊1冊の本から「読まれたがっているオーラ」を感じることができる気がする。
一方でジュンク堂やブックファーストなどは、おそらく蔵書数は多いのだろうが、棚が高くて通路が狭く、とても本からの「読んでほしい」オーラをのんびり感じることのできる環境とはいえないし、なんだか窮屈な感じがする。読書とはそんな窮屈なものではなく、もっと生活に密着したものであるはずなのだ。
結局のところ、刺激を受けるなら有隣堂や文教堂、求めている本を探すなら、ジュンク堂、ブックファーストという具合に状況が許す限り使い分けている。
Jリーグが始まってしばらくしたとき思った。「Jリーグがあと5年早く始まっていれば、僕のサッカー人生はもっと有意義なものになったかもしれない」と。なぜならそのときすでに、猛暑の中で水も飲ませずにひたすらダッシュをやらせるような古い体質のサッカー部に嫌気が差して辞めた後だったから。それでも同時期にサッカー部を辞めた仲間と昼休みにサッカーを楽しんでいたので、カズのプレーを真似したりしたものだ
「あと5年早ければ」と思ったのは、テレビ放映の影響の大きさを実感したからである。定期的に映像でいいプレーに触れることで、理想のプレーのイメージを描きやすくなるし、練習に対するモチベーションも維持しやすくなる。それまではサッカーのテレビ中継と言えば、トヨタカップや天皇杯、高校サッカーなど年に数えるぐらいしかなかったし、どれも単発だったため、どの選手がどんなプレーするかもわからずに漠然と観るるしかなかったのだ。
「そんなものは言い訳」という人もいるだろう。確かにそんな時代の中でも自分を磨いてきた人間もいて、中田英俊もその時代から生まれているのである。しかし、事実として、Jリーグが始まって十数年経った今の、ユースレベルの技術の高さは誰もが認めるところだし、やはり、映像を通じで模範となる姿に頻繁に触れられるということは、何事においても上達の近道になるのだと思うのである。
ここまでなら、所詮、サッカーという超メジャースポーツゆえにもたらされた改革であって、多くの人はそんな恩恵を授かることなく未だ試行錯誤しているのかもしれない。
しかし、ここ4,5年でそこにさらなる変化が訪れている。僕が、その恩恵を感じるのは、スカッシュというまずテレビで放映されることのないスポーツに触れるときだったり、他には、たまにギターをかき鳴らすときだろうか。
昔は本を買ってきてそこに書かれている通りに弾いて満足するしかなかった。そうなると、本当にこの弾き方であっているのか、指の運びは正しいのか、音の響きはどうなのか、所詮文字で書かれた本で、音や動きを表現しようとしても限界があるのである。しかし、今ではインターネット上を検索すれば、弾き方の解説とともに、音声ファイルをアップしてあったり、YouTubeに映像を投稿して弦の押さえ方から、指の使い方まで詳細に映してレッスンしている人までいる。まだまだ映像を発信できる設備を持っている人は少数派であるが、今後もっと増えていくのだろう。
もう「お金がない」とか、「教えてくれる人がいない」とか、これから少しずつ関係なくなっていくんだな。みんな言い訳してないかい?
ここ4ヶ月ほど痛みの消えなかった左足を完治させるため、近いうちに入院することがほぼ決定した。手術自体は嫌だが、病院という空間で過ごすことは変わった刺激があってそれほど忌み嫌うものでもない。
一度でも入院したことのある人なら知っているだろう。あの白い空間、彩度が低く、明度の高い人工物で囲まれた病室という空間。あの場所で数日過ごすだけで、世の中の色彩の豊かさを実感するのだ。自然物も人工物も含めて、世の中には色が溢れており、それが人に良くも悪くも刺激を与えているのだ。
以前は、友人のお見舞いの際に花を持っていくとき、「もっと実用的なもののほうが・・・」などと思っていたが、あの無機質な空間で花束が発する、自然の彩りの豊かさは大きい。
先日、母が、2つの予定が重なったときのその間の時間の潰し方について話していた。普段あまり電車を利用しない母はやはりそのようなときに困るという。「単純にスタバでよくない?」というと、入りにくいし注文の仕方もわからないのだそうだ。
さて、昨日の話。スカッシュラケットのガットが切れたので恵比寿まで張りに行った。年末のせいか、張りあがるまでに1時間半ほどかかるというので、駅前で時間を潰すことにした。以前恵比寿の会社に2年勤めていたこともあって勝手知ったる恵比寿。ATREの有隣堂で本を買って、エクセシオールカフェが混んでいたのと、着ていたダウンをわざわざ脱ぎたくなかったのでオープンテラスのエスカレーター脇のスタバへ。さて、1時間半を過ごすとなるとコーヒーの量もいつものサイズでは物足りない。
「えーと、キャラメルマキアートの…」
そこでようやく気づく。ショート、トール…その次は何だ?考えてみれば今までスタバでトール以上のサイズを頼んだことがない。メニューにはショート、トールを示す「S」「T」の隣に、「G」と「V」…平均以上の英語力と自負しながらもまったく想像できない。そもそもこれは英語なのか?
確かにここで店員に読み方を尋ねられない空気がスタバには…特に恵比寿のスタバのこの店員にはある。母の言っていた「入りにくい」の正体はこれだったのか。そもそも行き着けのカフェはスタバでもタリーズでもエクセルシオール(エクセシオール)でもなくカフェドュモンドなのだ…どうしようもない。
「トールで」
人生とは妥協の積み重ねである。とはいえそのままでは成長もなにもないので、一応おさらい。
例によって地道に、しかもお金をかけずに英語の勉強を続けている。「英語のヒアリングの勉強には洋画を英語の字幕表記で見るのが一番にいい」というのは以前からよく聞く話だが、DVDって高価なイメージがあったのでなかなか実行する気にならなかった。
しかし、先日久しぶりにお店でDVDをみてみると、実は最近のDVDはずいぶん安く1,000円切っているものまであるのだからこれは利用しない手はない。
さて、そうなると問題はどのような内容の映画を選ぶかである。アクションモノは爆発シーンばかりで会話が少ないからあまり役に立たないし、遠い昔を舞台としたものやハリーポッターのような魔法を扱ったものだといろいろ特殊な単語が出てくるだろう。結局、ラブストーリーがもっとも日常会話が多く現代の会話が含まれているという結論に達した。
そこで、1,200円で売っていたDVD「スウィートノベンバー」を購入。キアヌリーブスとシャーリーズセロンのラブストーリー。英語字幕を表示してひたすら部屋のPCで流し続ける。
ところだが、気がつくと部屋の空気がどんよりしてくるのだ。それはそうだ。2時間に一回、ヒロインが癌であることを告げられるのだから。そう、ラブストーリーは多くの場合、物語を盛り上げる障害として病気や別れのシーンがあるのだ。そんな映画を永遠と流せばそりゃあ部屋の空気は暗くなる。
というわけでそんな空気に耐え切れなくなって、今はひたすら「バックトゥザフューチャー」3部作。これは名作。見れば見るほど、90年代頭にこの作品ができあがっていたことに驚きである。
先ほどからルネサンス佐世保の銃乱射事件の速報が流れている。
多くのスポーツクラブは入り口の付近にフロントがあり、その前を通らずには施設を利用できないつくりになっている。とはいえ、厳重に警備しているわけでもないので、時々フロントが無人のときもあるし、食事を買いに行って帰ってきた会員を装えばフロントの前を素通りすることも出来る。そういう意味では、多くのスポーツクラブで部外者の侵入に対する対策ができているとは言い難い。なんにしても今回の事件のように銃を乱射しながら侵入を試みられたら、もはやどうしようもないだろう。
今回の事件を受けて、スポーツクラブは気軽に見学者を受け入れて施設内を案内し、少し高級なイメージを与えがちのスポーツクラブを、「一般的なもの」だとアピールする方向から、部外者を簡単には施設内には入れないという、安全性を謳う方向に変わるのかもしれない。
そうなったら、部外者の進入を大量に許すスカッシュの大会などは開きにくくなるのだろうな。
週末にこのブログのデザインを見直した。間に合わせのデザインのままずいぶんとほったらかしにしてしまったと反省している。同時にこのブログを書き始めてすでに4年が経過しているというから驚いた。Niftyのココログのサービスが始まったのが2003年の12月というから、このブログを始めた頃は「ブログ」という言葉をほとんどの人が知らなかった時代である。
そもそもこのブログは、「朝起きて、会社に行って、帰ってきて、少しゆっくりして、寝る」。そんな、サラリーマンにとっては一生のうちに何回も繰り返される、一見同じような日々の中にも、何かしらの変化を感じ取って自分の糧にして行こう。日々ブログネタを探すことにはそんな意味があるだろう。そう思って始めた。狙い通りの効果はもちろんあったが、その意義はそれだけに終わらない。
実はこのブログは、人が読むか読まないかは重要ではない。重要なのは、自分に「ひょっとしたら誰かが読むかもしれない」と思わせることだ。そう思うことによって、文章の中で使う言葉や表現を曖昧なままでは終わらせることを自分に許さない。そんな気持ちが、表現力を向上させ、僕の知識や関心事をより深く掘り下げることに役立っているのを感じる。
FX(外国為替証拠金取引)の人気が投資家の間で高まっているのだそうだ。そしてFXにのめりこむ人の多くは高レバレッジ、つまり、業者に預けた保証金の何倍もの取引をしているのだと言う。
ちなみに僕自身は3年ほど前から貯金の半分程を外貨建ての投資信託で運用しており、為替の変動を利用して資産を増やすという点ではFXと変わらないが、せいぜい年間で5%程度の利益である。FXの手数料の安さと、閲覧画面に取引結果がリアルタイムに反映する点に魅力を感じて、以前口座開設を申し込んだが、なぜか業者からの口座開設通知が来ないのでその段階で止まっている。
さて話を戻すと、このFXブームの原因は一体どこにあるのだろう?と考えたとき、ふと一つの可能性を思いついた。上にも書いたように、FXにのめりこむ人の多くは高倍率の取引で、ほとんどギャンブルのような運用の方法を行っている。実際、その多くが多額の損失を抱えた経験を持ちながらも、ハイリスクハイリターンの魅力からやめることができないのだという。
つまり、その多くはパチンコや公営ギャンブルにのめりこむ人と根本的には違いがないのである。ただ違うのは、「ギャンブルなんかにのめりこんで・・」とか「どうせ儲かるわけないのに・・」という風に、世間から冷たい見られることがないということだ。それどころか、「FX?為替?」「ホームトレード?」「なんだか賢そう・・」という目で見られさえする。そんな尊敬のまなざしを欲している人は意外と世の中にいるのだろう。
結局、FXの高倍率取引は、実質ギャンブルと大差ないにも関わらず、無知な世間の人々がそれを推奨する空気を作り出し、パチンコなどにのめりこむことに抵抗を持ちながらも、人から尊敬されたい、というような世間体を気にする潜在的なギャンブラー達を覚醒させた結果ではないだろうか。
とりあえず、無知が当人だけを苦しめているうちは我関せずである。
食卓で両親が談笑していた。
「『そちらは○○さんのお宅でよろしかったでしょうか?』だって(笑)」
そんな、電話による売り込みの、セールスマンの文句が母のツボにはまったらしい。
僕個人の感想としては、そこまで笑える表現だとは思えない。必要以上に丁寧に言おうとしているのかな、と思わなくもないが許容範囲である。この辺が、日々、いろいろな表現に触れている人間と、同じ人間としか日常的に言葉を交わさない人間の違いなのだろうか。
そもそも「正しい言葉」とはなんなのだろう。広辞苑に載っているか否か?、それとも、元々の使われ方か否か?通じるか否か?これを定義せずに表現を「正しい」か「間違っている」か議論しても永遠に収束しないだろう。
例えば、「一所懸命」ではなく「一生懸命」と表現する人が多いが、どちらが正しいかは、義務教育期間に日本史をマジメに勉強したことのなる人なら知っているはず。「初めまして」ではなく「始めまして」と記述することもかなりの人に認められている。誰かが「こんにちわ」と書いた文字を「こんにちは」といちいち訂正しようものなら、逆に反感を買うだろう。結局言葉なんて、「通じればいい」ということになりはしないか。もちろん元々の使い方を知ることは大切なことだし、それを疎かにしていいとは思わない。状況に応じて、言葉を使い分けられる人間にはその人の底の深さを感じるし、いたずらに流行り言葉を使う人にはその移り気な考え方から、頼りない印象さえ受ける。
ただ、漢字から平仮名が生まれたように、英語がカタカナとして日本語化するように、言葉は常に変化し続ける。その変化を受け入れないで、人の言葉を「おかしい」と切り捨てることは、自分の世界を狭くすることにしかならない。
「言葉が変化するのはわかるが、それにしたって急すぎるだろう」
そんな反論が聞こえてきそうだ。
しかし、そんな言葉の変化の驚異的な速度こそが、携帯電話とインターネットが作り出したものなのだ。コミュニケーションの量に比例して言葉の突然変異の可能性が高まるのだから、携帯電話やインターネットによって24時間コミュニケーションを取ることが可能になった今、その変化の速度は以前と比較にならないほど早くなるのは当然である。
その名の通り、普段IT技術に接しているからこそ陥りやすい病気のこと。勝手に名前を付けさせてもらった。別に健康を害するほどのものではないので、その手の話題があると面白おかしく読ませてもらっている。
例えば以前ここのテーマでも書いたが、散らかった部屋のなかから目的のものを探そうとするときの最後の手段として何故か「検索」という考えが頭の中にあったり、携帯電話のバッテリーが足りなくなっていると、精神的にも憂鬱になって来て、まるで携帯電話のバッテリーが自分自身のバッテリーのように振舞う人。時計をしていないときでも時間を知ろうとしてつい左腕を見てしまう人など。まだまだ列挙すればたくさん出てきそうである。今回語りたいのも同類の病気。
スマートフォンが普及している海外のメディアで以前取り上げられていた話。その人はスマートフォンをバイブ機能で腰のベルトにつけている。もちろん着信を振動で知るためなのだが、そういう使い方をして3年程経ったある日、振動を感じたので腰を見ると、スマートフォンがない。鞄の中を見てもない。そこでようやく、彼はその日、家に端末を置き忘れていたことに気づいたのだそうだ。では振動はどこから?もちろん錯覚である。このように感じるはずのない振動を日常的に感じてしまった経験は、スマートフォンを日常的に使っている人の多くにあるのだそうだ。
当然このような症状は日本の携帯ユーザーにも生じるはずである。こんなことを急に思い出したのは、先ほどリビングでラーメンを食べているときに携帯のメール着信音に設定している「ドラえもんのタイトルコール」を聞いたような気がしたから。携帯は2階の自分の部屋においてあって、しかもマナーモードだった。着信音はどこから?。
一つの楽しみであるテレビドラマも、ドラマ好きの視聴者達が集まるコミュニティサイトをチェックしたり、動画共有サイトを利用することによって、退屈なドラマを一生懸命見続けるなどということもなくなってた。今クールも既にその対象を日テレの「働きマン」とフジテレビの「SP」に絞り込んでいる。
知っている人も多いだろうが「働きマン」は雑誌社に勤める女性編集者の物語。時には有名人のゴシップの現場をカメラに収めるために張り込むことも必要。人のプライベートを暴露する仕事に対して、編集者達が行き着いた結論が印象的である。
そして、奇遇なことに今読んでいる藤原伊織の本「シリウスの道」にも似たような場面が描かれていた。藤原伊織は電通に勤務して作家になった作家なので、作品の中には広告代理店の職場の様子がリアルに描かれる。そんなシーンの中の一つ。
「誇れる」かどうかはなんとも言えないが、恐らく僕は好きな仕事をできている世の中では少数派なのだろう。しかしその周囲には、下げたくもない頭を必死で下げ続けている人や、良心の呵責を感じながらも生活のために必死で働いている人がいるのだ。僕等はそういう人たちを決して蔑むべきではない。そして、可能であればそういう人たちにもまた、「自分たちの仕事は必要なものなのだ」と胸をはって欲しいものだ。
論理的な思考を司る左脳、直感的な思考を司る右脳。右脳と左脳をバランスよく使える人間が、より世の中に多くの楽しみを見出せると常々感じている。ただし、これは先天的なものではないと聞く。誰しも幼い頃は右脳が発達し、歳を取るに従い左脳を主とした思考に切り替わっていくのだそうだ。
さて、そうすると思い出されるのが、僕の小学生低学年の頃の体験である。図工の授業で、絵の具を持って校庭へ出て絵を描く課題を与えられたときのこと。大した対象物もなかったから、みんな季節外れの桜の木を描いていた。そして、その授業の終わりが近づいて教室に戻ってみんなの絵を見たとき、桜の幹の色を灰色で塗ったのが自分だけだったことを知った。他の生徒たちはというと、桜の幹を茶色に塗っていたのである。ちなみに、今でも僕の中のその色の認識は変わらない。「桜の幹の色は何色?」と尋ねられて、名のある色のどれかを挙げなければならないなら、やはり「灰色」もしくは「グレー」と答えるだろう。
何が言いたいかというと、小学生低学年ですら、すでに大部分の生徒が「木は茶色」という論理的思考を当然のように持っていたということである。芸術の分野において、論理的思考は時に大きな妨げとなるらしい。例えば、人物画を描く際に「鼻は2つの目の中心の真下にある」といった論理的思考を介在させる限り、上手い絵はかけないだろう。なぜなら、確かに鼻は目の中心の下にあるのだが、それは正面を向いているときに限ることで、対象の人物が真正面を向いていることなど稀である。
話が少しずれたが、小学校時代の体験の話に戻ると、結局、右脳よりの思考から左脳よりの思考へ切り替わる転換期は、実は小学生よりもっと前の幼少期にあるらしいということだ。
そうなると芸術的感性をの豊かな子供を育てたいと考えている世の親たちは実は、もっと子育てに注意すべきなのかもしれない。少なくとも子供と過ごすお絵かきの時間に、勝手にクレヨンを差し出して、「空は青」、「太陽は黄色か赤」、「葉は緑」、「木は茶色」、などといった、右脳的思考を妨げる概念を不用意に植えつけるべきではないのだろう。
TBSの「アッコにおまかせ!」が「初音ミク」というソフトについて意図的な報道をしたとして、軽く騒がれていたようだ。さっそくニコニコ動画で問題の映像を見てみた。確かに「オタクは気持ち悪い」的な意図が見え隠れして、本来の製品に対する視点が途中からどこかへ行ってしまっている気がする。
つくばエクスプレスが開通し、メイド喫茶が注目を集め、もはやアキバ系を含むオタク(今は「ヲタ」と記述すべきなのだろうか?)の存在も認めらたように思っていたから。オタクと呼ばれる人たちを蔑む風潮が今も公共のテレビという中に存在していることに少し驚いた。
とりあえず思うのは、「オタク」という言葉を蔑みの念を込めて使う人に限って、世の中の流行り廃りに振り回せれて何一つ熱く語れるモノを持っていないことが多い、ということ。周囲の目を気にせずに思いっきり好きなことに打ち込んでいる「オタク」と呼ばれる人々と比較したら、僕にとって尊敬すべきは明らかに後者である。
ついでに言うと、新しいものを初めて目にしたとき、耳にしたときに、「好奇心」よりも「拒絶反応」が先行する人もまた、往々にしてつまらない人が多い。
新聞の購読率が落ちているという。インターネットの普及と世間の環境問題への関心の高まりを考えれは当然である。
もちろん、今まで新聞で多くの情報を得ていた人たちはインターネットと言う手法にシフトしたわけだが、それはつまり「欲しい情報だけを得る」という方向へ情報を得る手段が変化してきていると言える。
この流れは何も新聞というメディアに限ったことではない。例えばテレビのようね映像媒体である。インターネットを通じたオンデマンド放送が既に広がりを見せ、さらにニコニコ動画やYouTubeなどの動画アップロードサイトも一部のユーザーにとっては必要不可欠となっている。つまり映像媒体もまた「見たい番組だけを見る」という形へと確実に変化しているのである。そして、この流れは2011年の地上波アナログ放送の停止をもって一気に加速するだろう。
この変化は「無駄を省くことができる」という面では喜ぶべきことなのかもしれない。しかしどんなものにも長所と短所はあるもので、インターネットを新聞代わりにするということは、今まで、1面からスポーツ面へと大きな紙面をめくろとしたときに、ふと目に止まった社会面の記事に興味を持つ、などということは、これからはなくなるわけだ。テレビについても同様に、普段見ている番組を見終わってから、少しぼーっとしているうちに次の番組が始まり、面白そうだったからそのまま見てしまう。ということもなくなる。
つまりだ、興味のある部分はひたすら情報が入ってきて、興味のない部分についてはほとんど入ってこない。そんな情報環境への変化とも言える。そして、そのような環境で育つのは、限られた情報ばかりをひたすら得た、いわゆる専門性の高い人間なのだ。
多くの社員を抱え、分業化が徹底している大企業にとっては専門性の高い人間は大歓迎である。しかし、ベンチャー企業やプライベートでは、「木を見て森を見ない」人間ほど扱いにくい人間はいない。専門性も重要だが汎用性も決しておろそかにしてはいけない。技術があっても視野の狭い人間はその技術を有効利用はずもないのだから。
すでに先端技術を使いこなしていると自負する方々は、そろそろ汎用性を維持するため情報収集方法を考え始めるべきなのかもしれない。
最近思ったこと、辻希美、加護亜依(どちらも元モーニング娘。)、安達祐美、最近で言うと志田未来なんかも同じ匂いがする。小学生のときに注目を浴びた芸能人はなぜ高い確率で童顔のまま成長するのだろうか。そんなことを考えて一つの結論に達した。
「小学生」という触れ込みで世間の注目を集めるためには、それは「小学生」らしい「小学生」である必要があったのではないか。しかし、視聴者である大人たちが育ってきた時代と、その小学生の育ってきた時代とでは、当然文化も環境も異なり、考え方も違うはず。そうなると、大人達が思う「小学生」らしい「小学生」とは、実際の小学生のスタンダードとはかなりかけ離れたものになるだろう。よく学校の校則などに書いてあるような「中学生らし身だしなみ」が実際の中学生の身だしなみからは遠くかけ離れているように。
そんな大人たちの「小学生」像を満たすために選ばれた「小学生」らしい「小学生」が彼女たちだったのかもしれない。そして、彼女達が二十歳を超えて、そのお世辞にも大人っぽいと言えない姿を認めてようやく、大人たちは、彼女たちが実はスタンダードな小学生ではなかったことに気づくのだ。
整形手術は是か非か。これに対する答えは生きている文化によって大きく違うらしい。やっぱりというべきか意外にもと言うべきか日本には否定的な意見がまだまだ根強く残っているらしい。ちなみに僕の意見はというと、「特に反対はしない。」というもの。それはどういうことかと言うと、例えば身近な人が整形手術を受けようかと迷っているなら。とりあえずデメリットとメリットを列挙させて、そのすべてを吟味した上でも、手術をしたいと言うなら、止める理由もないしむしろ応援するだろう、というもの。結局のところ整形手術に限らず、本人が深く考えた上で決断したことで、特に人に迷惑をかけないものなら反対する理由などないということだ。
日本という国はどうやらピアスなども含め「体を傷つける」と認識されるような行為を嫌悪する傾向があり、それが未だ整形手術という文化が市民権を得ていない大きな理由のようだ。しかしだ、日本人の多くは虫歯の治療の際、骨折の治療の際に体に傷をつけているのだから面白い。整形手術という題材のときだけ「傷つけるのは邪道」と叫ばれても説得力は感じないが、こんなことを書くと、「怪我や病を治療するためにつける傷なら問題ない」という反対派の声が予想されるので付け加えておく。(というよりもここが一番言いたいこと)。それならば「怪我・病」とはなんだろう。僕が思うその定義はこうだ。「人の中に存在し、放っておくと快適に生きるのに支障をきたす状態のこと」。
それであれば「整形手術」とは「マイナス思考」という病(怪我)を治すための治療と解釈することが出来る。
人の良くない振る舞いを直す方法として、一生懸命話して納得させる方法しか僕にはできない。もちろん頭ごなしに怒鳴りつける方法もあるが、この方法が使えるのはせいぜいサッカーの試合中ぐらいで、日常の中ではあまり有効な手段ではない。
こんな方法もあったとは、朝からいい話を読んだ。
平日の会社帰り。上野から大宮へ向かうには、宇都宮線か高崎線しかない。いつものように吊り革の下で本を開いて物語の中に入り込む。ふと気づくと列車はすでに赤羽を過ぎていて、上野を出たときには乗っていたのかそれとも赤羽からなのか、少し離れた吊り革の下に七十は過ぎていると見える老婦人が立っていた。仕事を終えて疲れているのか、座席に座っている人はもちろん、近くの優先席に座った人たちも席を譲ろうとはしなかった。
僕はそれでいいと思っている。もしこの場面で、「自分を善と信じる」人が、優先席で座っている人に向かって、「席を譲ってあげたらどうだ?」と抗いようのない言葉をぶつけるようなら、それこそ問題である。この時間帯に座席に座っている人は、一つ電車を待って、20分ほど並んでその席を手に入れたのだから。優先席に座っている人についても。誰も彼等の心臓にペースメーカーが埋まってないなんてわからない。妊娠してないとも怪我をしていないとも、誰にも断言できないのだから。
昨年の話。ひょっとしたら記憶にある人もいるだろう。日本人の若い写真家がアメリカで消息を絶ち、その両親はmixiの日記に次のようなことを書き込んだ。
そして、それを読んだ「自分を善と信じる」人が、自分の日記と参加しているコミュニティのトピックに次のような文を書き込んだ。
その結果、mixi上に存在する数多くの「自分を善と信じる」人達によって、同様の内容のトピックがコミュニティの内容と関係無しに乱立していった。「コミュニティと関係のないトピックを立てるな」「人の命がかかっていれば何をやってもいいのか?」という意見によって一部収束したとは言えもはや焼け石に水。結果として、その両親の日記のコメント欄には、「息子さんの無事を祈っています」とか、「気持ちを強く持ってください」などといった、「自分を善と信じる」人達の実質的に何の役にも立たない大量のコメントで上限に達し、本当に必要としている息子の消息に関する情報を受け付けるができなくなったのである。
人の行動。それが「善」であれば世間は歓迎する。「悪」であれば世間はそれを止めようとするだろうし、当人の心の中にある罪悪感もブレーキとなるだろう。しかし、本人が「善と信じる行動」、一見「善のように見える行動」。これを止めようとするのは大きな勇気がいる。僕の思う世の中でもっともタチの悪い行動がこれである。
浅はかな行動は、時に罪だ。
時間をとって、お互いの気持ちを語ろうとしているときに、「あなたもいつかわかるよ」とか「お前はまだ子供だからわからないんだ」とか言って、それ以上、気持ちを説明しようとしない人がいる。
「いつかわかるよ」「あなたにはわからない」この類の言葉って、自分の行動や考え方に矛盾を抱えながらも、それに気づかないふりをして誤魔化して生きていく人にとっては、ものすごく便利な言葉だ。
僕たちが小さかったころ、好奇心旺盛な子どもたちは、何かに興味を持つと、そのことを知るために親に尋ねたり、人によっては学校の先生に尋ねたりしたのだろう。当時はそういうことでしか好奇心を満たす方法はなかったのだ。さすがに虫眼鏡を持って道端のフンコロガシを一日中眺めているなんて行動が許されるほどの平和な時代はすでに終わっていたのだから。
しかし、人によっては父親が仕事でいそがしく、子供が起きている間に家に帰って来ないなどという家庭もあったるだろう。早く帰ってきたとしても、子どもの質問に対して納得の行く答えを用意できない親もいたのだろう。担任の先生に尋ねたとしても、「そんなことは知らなくていい」と突っぱねる先生もいたのかもしれない。あの当時の好奇心というのは、そうやって多くの部分を環境に依存していたのである。
ところが今はどうだろう。インターネットという、おそらく多くの家庭に備わっている設備と、その検索方法さえ知っていればたいがいの好奇心は満たされるのである。僕は思う。今の小学生、中学生たちが成人になったころ。好奇心旺盛な人と、そうでない人の知識量の差は、取り返しのつかないほどに広がっているに違いない。
僕が大学に在学していた頃にインターネットの波が押し寄せてきた。新しい技術を取り入れるのが早い僕は、スポーツや遊びなど、興味ある物事に関する情報や、それに関連する出会いをインターネットを利用して構築するようになった。
そして、インターネットを通じていろんな人間関係を築くうちに、大学時代の友人たちと一緒にいるのが退屈になってきた。一流大学を卒業して大手の企業に就職した彼等の考え方がどれも似たようなものに思えて来て、一緒にいても刺激を感じなくなってきたのだ。そんなことがあったから、学歴とか出身地とか年齢とか国籍とか、そういうものにこだわらずに、いろんな人の考え方に触れるように生きていこう、そう思ってそれからの人間関係は主にインターネットを活用して作るようになった。
最近、スポーツクラブに入り浸っているから、そこでの人間関係も少しずつ濃くなってきたようだ。考えてみればここの人間関係はインターネットを経由しない僕にとっては久しぶりの種類のモノ。ここの人たちはまさに今までの僕にとっては信じがたい種類の人たち。「チャットって何?」「掲示板って何?」という人までいる。
そう、考えてみると、インターネットで知り合う人たちは、インターネットでの出会いに抵抗のない人たちばかり。偏らない人間関係を目指して、それを実行してきたつもりでも、実は偏っていたんだな。
本来、これは喜ぶべきニュースなのだろうが、僕の頭をよぎったのはこんなこと。
いずれ義足の方が速く走れる日が来るのかもしれない。義足ならば筋肉の披露が起きないという点で肉体より有利だからだ。もしそんな日が来たら、自分のプライドや名声を守るために体を壊すこともいとわずドーピングを繰り返す昨今のアスリート達は、自ら進んで自分の足を切り落とすのかもしれない。
何かの物事に定期的に取り組むとき、そのモチベーションを維持することは限られた時間を有効に使うためには非常に重要である。社会人になって好きなことに打ち込める時間が限られてきてからは以前にも増してそう感じている。
だから、寒そうな冬の朝のサッカーの練習の前日には、チャンピオンズリーグのビデオを観たり、ジダンのビデオを繰り返し見たりしたものだ。
今は残念ながらサッカーからは少し離れていて、その代わりに週3から週4程度スカッシュを楽しんでいる。1年強の療養生活を経て、少しずつ仕事を増やして途中であるため、いずれ今の練習量をキープするためには、会社帰りにジムに寄ることも避けられなくなるだろう。そうなるとモチベーションの維持は本当に難しくなるはずだ。しかしだ、技術は進歩したもので、考えてみると携帯にMediaPlayerが付属しているのだからこれを利用しない手はない。
早速YouTubeからお気に入りのスカッシュの動画をダウンロードして、動画のファイル形式をflv形式から3gp形式に変換し、画面サイズも同様にQVGAの240×320に変換して、メモリーカード経由で携帯に送ってみた。ばっちり、すごく綺麗。
練習中にだらけてきたとき、会社帰りにジムに行ってスカッシュしようと思っていたにも関わらず、予想以上に仕事に疲れてジムに行くのを躊躇っているとき、もう一度モチベーションを上げるためにこれを観るようにしよう。
心の中の炎は再び燃えたぎるに違いない。
週に1回はプールで泳ぐことにした。またダイビングをやりたいというのもあるし、上半身にも筋肉をつけてバランスの良いスタイルを作りたいなどの理由もあってのことだ。
ところがだ、200メートルほど泳ぐと結構疲れる。クロールや平泳ぎに必要な筋肉はサッカーの筋肉ともスカッシュの筋肉とも異なるらしい。そして、問題は息継ぎ。50メートルほど連続で泳ぐと、息が少し辛くなってくる。もちろん息継ぎの方法はわかっている。それでも泳いでいるうちに徐々に肺の中の空気が少なくなっていくように感じるのだ。たぶん定期的に泳ぐことを続けていればすぐに昔のように永遠と(?)泳ぎ続けられるようにはなるのだろうが、小学校の頃はなにも考えずにできたことが、なぜかできなくなっている。そんなことってきっと他にもあるのだろう。
ふと思いついたのは鉄棒の「逆上がり」。今、「逆上がり」ってできるだろうか。そりゃあ、5分ぐらい鉄棒の前で格闘すればできるだろうが、今、目の前に丁度いい高さの鉄棒があって、「逆上がり」に挑戦してみたら、その最初の挑戦で、「逆上がり」成功できるだろうか。
世界のスポーツ事情を見ると、どんな競技においてもその上位には、表音文字を母国語としている選手が多いように思う。もちろん、アルファベットを代表とする表音文字の言語の方が、日本語や中国語のような表意文字(または表語文字)よりも広く世界に普及しているのだから当然といえば当然かもしれないが、今回ふと思ったのは、使用する文字のタイプがその選手の能力に少なからず影響を与えているのではないか?ということ。
表音文字の代表であるアルファベットを用いた英語と、表意文字である漢字を使用する日本語を考えると、どちらも馴染みが深くて日本人にとってはわかりやすいだろう。
和訳や英訳をしたことのある人は知っている。同じ意味の文章を書いたときに英語のほうが日本語よりも長くなることを。そして、先進国の中で文字情報は日常生活から切り離せない存在である。それはつまり、本を読んでいるとき、新聞を読んでいるとき、サイトを閲覧しているとき、日本語圏の人よりも英語圏の人々の方が日常生活の中でより多くの眼球運動を強いられるということである。そしてそれが、多くのスポーツにおいて重要な要素である動体視力の向上に繋がり、アスリートとしての成績に影響を与えているのではないだろうか。
ちなみにこの説を裏付けるデータは一切ない。
最近よく話をする(といってもSkypeやSecondLife内での話だが)イギリス人がいる。彼は仕事で世界を飛び回っていて、さらに日本にも何年か住んでいたため各国の言語に堪能である。そして彼は同性愛者である。
時々「この本は女が表紙ってとこだけが嫌だな(笑)」などと言ったりする以外は、普通の好青年で話も奥が深く面白いので、英語に関する質問や日本の外から見た考え方を知りたいときは彼に尋ねる。先日「Chocolate cake」が食べ物以外の別の意味を持っているのかどうかを知りたくて彼に尋ねたら、彼は
「その言葉は時々黒人を表すことがある。でもそんな言葉は使わないほうがいいよ」
と教えてくれた。そしてこう付け加えた。
「世の中にはたくさんの黒人を現す差別的な言葉があって一番最悪なのは『nigger』、聞いたことあるだろ?それがイギリスやアメリカの現実だ。君は英語を話す国に生まれなくて幸せだと思うよ」と。
そしてさらにこんなことも言った。
「同性愛者を指す言葉も同じようなものだね、homo、gay、queer、queen、いろいろある。これに関しては日本はあまりいい国じゃないかも。」
それを聞いて納得いくものがあった。以前、日本に旅行に行きたいと言っていたゲイのイギリス人が、日本でゲイということをカミングアウトしていいものかどうか悩んでいたのだ。日本は他国から見ると同性愛者に対する差別がかなり強い国と映っているらしい。
いい機会だったのでもう一つ聞いてみた。
「ちなみにせっかくだから教えて欲しいんだけど、同性愛者を指す適切な表現はどれなの?」
「homosexualは少し堅いけど正しい表現だね。でもgayの方が親しみやすいかも」
「へぇ、じゃあ君の事を友達に紹介するときに、『彼はgayなんだよ』と紹介しても君は気分を害さないのかな?」
「全然問題なし。そもそも僕は手首に『Gay boy』ってタトゥー入れてるし。(笑)」
というわけで、タイトルに悩んだこともあり、今回はあえて「ゲイ」という文字を入れてみた。ちなみにGayJapanNewsなるサイトがあることも先ほど知った。今度ゆっくり読んでみようかな。新聞や報道番組をどんなに熱心に眺めたところで知ることのできない考え方に触れられるのかも。
※誤解を招かぬように付け加えると、僕は異性愛者である。
「サッカーが嫌いな人」というのがいるらしい。そりゃあ世界一人気のあるスポーツなだけに、それを嫌う人もまた多いのは当然だろう。しかし面白いことに、サッカーが嫌いな人の多くは、2002年の日韓ワールドカップ開催や、その以前はJリーグの発足を期に嫌いになったという。つまり彼等は「人気があるものが嫌い」という人種なのだ。
そういえば、昔勤めていた会社の同僚でこんな人がいた。昼時に映画の話題になったときのこと、彼はレオナルド・ディカプリオ主演の「タイタニック」を観たことがない、と言う。その理由を聞いたところ「世間が騒いでいるから観なかった」とだそうだ。確かに「タイタニック」は、その質以上に観客を動員したという印象はあるし、人気があるからといって傑作であるということにはならない。世間が注目するかしないか、と、それが傑作か駄作かは必ずしも一致しないのである。
きっと、このような「人気があるものが嫌い」的な嗜好を持つ人の多くは、「俺は周囲に流されない人間」的な芯の通った個性を主張しているつもりなのだろう。確かに、他の人が騒いでいるものに対して、見向きもしないという行動自体は、「周囲に流されていない」と言えるのかも知れないが、彼等のようにあえてそれを避けようとする行動は結局「周囲に思いっきり振り回されている」と言えるのではないだろうか。
結局「人気があるものが好き」な人も、「人気があるものが嫌い」な人も、自分自身でその対象を評価しようとする意識が希薄な人でしかなく、興味の対象を選別する方法としてはとても見習えるものではない。
筑紫哲也の肺癌報道によって一部のノンスモーカー達がネット上で歓喜に湧いている。ジャーナリストという職業柄、アンチを多く抱えるのは仕方がないとは言え、目に余る発言も多い。どうやらそんなノンスモーカー達の頭の中には「非喫煙家=善、喫煙家=悪」というなんとも単純な人間の分類方法が確立されているようだ。
僕が気になるのは、もし筑紫哲也が癌を克服して復帰することができたら、彼は一体、喫煙の害についてどのように触れるのだろうかとういこと。1日にタバコを3箱も吸うジャーナリストが肺癌になったのだから、禁煙気運の高まる今、何も触れずにはいられないだろう。個人的にはタバコを吸うことの害よりも、煙を撒き散らされることによって周囲の人が受ける不快感を訴えて欲しいものだ。タバコを吸うことの害など多くの喫煙家は認識しているだろうし、タバコの箱にも軽く書いてある、それらを認識した上で彼等は喫煙を楽しんでいるのだから。
とりあえず、何も言わずに隣でタバコを吸い始める人は論外として、隣の人に「タバコ吸ってもいいですか?」と許可を求めながら、さらにその隣の人には何も聞かなかったり、「勘弁してください」と答えるとあからさまに不機嫌になる人はどうにかして欲しいもの。
「喫煙を憎んで喫煙家を憎まず」とうポリシーの下、「彼等もニコチン中毒という病気の被害者なんだ」と考えるようにしてはいるが、それでも不快感と共に印象に残った人の顔にはやはり不快感が伴うのが人間の性(さが)である。幸いなことに現代はネットの普及によって同じ空間にいなくてもいくらでも意見交換ができる。そう考えると、わざわざ人間関係悪化のリスクを背負ってまで喫煙家と長い間行動を共にする必要もないのかな。
今年3月、Suicaが東京メトロや首都圏私鉄および都営バスなどでも利用可能になりその勢力を大きく拡大した。それに伴い、僕自身もカードから携帯端末利用のモバイルSuicaへと移行したわけだが、それによって携帯の持ち方は以前と大きく変わった。
これ以前の僕にとっての携帯はというと、PCから転送されてくるメールをチェックする程度のものでしかなかったので、特に人との約束のない日は、鞄の中に入れっぱなしで一日に数回チェックする程度であった。それが、モバイルSuicaの利用によって、携帯が定期券やパスネットの代わりとなってしまったわけだから、外出時は今までのように鞄に入れっぱなしというわけにはいかなくなった。
モバイルSuicaを利用している人の多くは、携帯をポケットに入れたり、女性であればトートバッグの中に入れたりしてすぐ出せるようにしているのだろうが、僕の場合はそうも行かない。まず、ジーンズの型崩れが嫌なので、ジーンズのポケットに財布や携帯を入れることは論外である。また、スポーツをするとき以外の外出時はだいたいウェストポーチを利用しているので、荷物は背中側にあり、出し入れは手探り。つまり頻繁に出したり入れたりするのには非常に不向きなのだ。
では、上着のポケットにいれればいい、ということになるだろうが、冬の厚手のコートならともかく、夏に向かうこの時期の薄い上着などは、携帯程度の重さでも左右のバランスが崩れるし、夏のTシャツ主体の時期になればポケットすらなくなってしまうので解決策としては不完全である。
そのような理由から、現在のところ、電車に乗って外出するときは基本的に携帯を手で持っているのだが、そろそろどこかでうっかり落としそうな予感。トイレに入るときなどは「水没」という最悪のシナリオが頭をよぎるし、電車とホームの隙間の闇も携帯を呼んでいるようだ。それは話のネタにはなるかもしれないが、あまりにも代償が大きい。
そこで、僕の求める理想のストラップ(むしろ「携帯グッズ」と呼ぶべきか)を探してみることにした。
残された装着場所としては、首に提げるか、ジーンズのベルトループ(←そういう名称らしい)に引っ掛けるか、のいずれかなのだ。しかし、ただ単純に首に提げただけでは、駅の改札を通るときには携帯を改札にタッチするために少しかがまないといけないし、単純にベルトループにフックで引っ掛けただけでは、改札機にお尻を向けないと改札を通過できないだろう。その動作はお世辞にも美しいとは言えない。できれば引っ張ると伸びる仕様が理想である。さらに贅沢を言えば、できれば首に提げるのは避けたいもの、携帯依存症の女子高生のような印象を受けるから。
つまり、僕の求めているストラップはジーンズのベルトループに引っ掛けてぶら下げることができ、さらに引っ張ると伸びる。という仕様のもの。そこまで考えて、そのぐらいの商品はすでに出回っていることだろう。とネットでは楽天を一通り探し、リアルではOPENして間もない大宮東急ハンズを探してみた。
ところが理想の商品に近いものはあるが見事に一致するものはない。リールストラップと呼ばれる引っ張ると伸びるストラップはあるのだが、あくまでもそれを付けたうえでポケットに入れる仕様になっており、常時携帯をぶらさげる仕様にはないっていない。さらに言うと、出回っているリールストラップの多くはあまりデザイン的に洗練されていない。
きっとリールに常に携帯の重さを支えられる程度の張力をつけると、今度は逆に引っ張るときに不便という理由から求めているような商品は存在しないのだろう。しかしそれなら、何かのボタンを押したときのみ引っ張ることができる仕様にして、携帯の重さは別の素材で支える仕様にすればいいと思うのだが。
結局、半日探して理想のストラップがないことを悟り、取り外し可能なネックストラップで妥協することにした。
半日ほどそのストラップを使用して思った感想。歩くのが速いと、携帯が繰り返し胸に当たって鬱陶しいのと、ストラップのトトロがガチャガチャ音を立ててうるさいし、少し可哀想。さらに言えば、上の方でも触れたが、やはり首に提げるのは僕のキャラクター的に違うような気がするば、ま、一時的なものとして我慢するとしよう。とりあえずトトロのストラップははずすことにした。考えてみればこいつは今まで何度改札機に身体をぶつけてきたことか・・・。
しばらく最新のストラップ情報を欠かさずチェックするとしよう。
先月亡くなった祖母の四十九日。前日の5時間半スカッシュのせいでやや足腰の筋肉にはりを感じながらも6時半には目を覚まし、両親と一緒に車で富士山の麓の街を目指す。
「母の日」だから、ネタに困ったカーラジオの番組はそれにちなんだ内容ばかり。「『親孝行したい時には親は無し』って言いますからね〜」。母の日や父の日に必ずと言っていいほど耳にするこんな言葉も、今日に限っては車内に一味違った空気を醸し出す。
左手に見えてきたあまり綺麗じゃない富士山を見ながら考えた。そういえば祖母は4月1日のエイプリルフールに死んだんだな、と。そして、正確に49日目ではないとはいえ、「母の日」に四十九日の法要を行うとは。もし故人が命日を自分で選べるとしたら4月1日は命日ランキングベスト3以内にランクインしそうだ。
さらに余計なことまで考える。ひょっとして12月25日に死んだら、四十九日はバレンタインデーかな?もしそうなら自分の番のときは少し狙ってみるかな。そう思って数えてみたが、残念ながらクリスマスからバレンタインデーまでは51日あった。ちっ、惜しい。12月と1月は31日まであるのだから当然といえば当然。まぁ、たとえ49日だったとしても、遺族にとってはそんな迷惑な死なれ方はないに違いない。
僕らが日々なんの疑問も持たずに接している習慣の中には、人間であるが故の「必然」であるものと、そうでないもの、つまりが「偶然」があるように思う。例えば、人間の表情は「必然」と言えるだろう。つまりそれは、地球を人類の誕生まで巻き戻してもう一度やり直したとしても、やはり人間は楽しいときに笑顔を作り、怒ったときに怒りの表情をするということだ。反対に「偶然」は、例えば「お辞儀」などが挙げられる。人に出会ったときになんらかの儀式を行うことは「必然」だろうが、それが「お辞儀」だったり「握手」だったり(国によってはつばを付けるところもあるらしいが)、その手段は「偶然」である。
さて、今回気になったのは次のよくある2つの動作。
・物事が上手くいかなかったときに頭を抱える動作。
・物事が上手くいったときに拳を握る、一般的にガッツポーズと言われる動作。
この2つは「必然」なのか「偶然」なのか。世界のスポーツを見る人ならこれが日本だけの習慣ではないことはすぐに分かるだろう。ヨーロッパのサッカーを観ていれば、シュートがゴールマウスをかすめた時に、ゴール裏で頭を抱えている観客を目にしているはずだ。テニスの大会を観ていれば、ショットが決まった瞬間に左手を突き上げる選手を見たことがあるはずだ。
とはいえ、日本以外でも行われているのだから「必然」と単純に言い切れるものでもない。どんな映像でも一瞬で世界を駆け巡る時代なのだから。テレビもないような未開の地で同じような動作をする人達がいるのかが重要である。そして「必然」であれば、どうしてそれは「必然」なのか、人間の身体の構造上の必然なのか、であれば、猿は。犬は。興味は尽きない。
ここまで書いて思い出した、2,3年前、頭を抱えるシロクマのニュースを見た記憶が・・・。
ちなみに、他にも同様に気になった例を挙げると、人間、右利きが多いのは「必然」?
東京都知事選。候補者の政見放送がYouTubeに投稿されたことによって、インターネットを利用した選挙活動解禁の気運が高まっているという。これに対して、慎重派の意見こうだ。「短い選挙期間中に特定候補の批判に火がつくと決定的な打撃になりかねない。」
確かにインターネットはそのような事態を引き起こす力を持っている。ただ、インターネットを利用した選挙活動を制限しようとしたところで、もはやそれを止める手段はない、さっさと解禁してその先の法整備に努めた方が賢明なのではないだろうか。
インターネットを日常的に利用している人なら分かるだろう。文字と画像しかアップできなかった4,5年前まで異なり、現在は、音声や動画も容易に匿名でアップすることができる。音声や動画のインパクトは画像や文字だけのときとは大きく異なり、不確かな発信元の情報であろうと、人々が欲しているものであればすぐに広まり、多くの人の目に触れてしまうのだから。
さて、では何が問題なのだろう。結局、「世の中に溢れる情報を、疑いもなく信じてしまう人が多すぎる」ということにつきるのではないだろうか。やはり日本は集団行動を重視する文化。みんなが右を向けば何も考えずに右を向く人が多いし、メディアの情報を疑いなく信じる人もまた多いのである。
多くの人が頭の中では理解しているのだろう。テレビの番組は視聴率を稼ぐために、視聴者の知りたがる仮説を演出するということ。新聞の記事でさえも時には事実に反しているということを。つまり、今の大量の情報が溢れ返る社会を生きるためには、それら対して常に多少の「疑い」を持って接することが必要なのだ。極端な話をすれば、どんなに信頼のおける友人の言うことさえも事実と異なる可能性があるし、自分の目で見たもの、聞いたものさえも、なんらかの先入観によって誤って受け入れられている可能性があるということである。
多くの人にこのような生き方ができれば、特定の個人や企業が不必要に批判にさらされることもないし、納豆が売り切れることもないだろう。
しかし、これは口で言うほど簡単ではない。情報に対して「疑い」を持って接するためには、世の中の仕組みや最新の技術の知識を備えていることが必要だからだ。例えば「視聴率が制作側の評価につながる」という社会の仕組み。音声や映像を加工する先端技術。国や組織の間の利害関係。それらの知識を持っていてこそ初めて、「この番組はヤラセかもしれない」「この映像は加工されている可能性が高い」と、発信元に応じた「疑い」を持って、その情報に接することができるのである。
今の情報化社会はまだまだ飽和しているとは言い難い。今後キーボードアレルギーの人は確実に減っていき、PC、携帯電話からのインターネットアクセスはますます高速化することだろう。つまり、今後ますます情報の多様性は増えるし、それに接する人も増える。もちろん、若い人から年取った人までそれ