「神様のないた日」…、以前より名前は聞いていた絵本のタイトル。昨日ようやく久しぶりにTully's Coffeeにいって読むことができた。
もともと涙もろいほうなのでハニーミルクラテを飲みながら泣きそうになった。
よかったらみなさま、Tully's Coffeeへお立ち寄りの際は、ちょっと探してみてください。きっと優しい気持ちになれるはず。
ここ半年ほどで、年齢がかなり上の人達と話す機会が急に増えた。「年齢が上」というのがどれくらいかというと、もちろん正確に年齢を聞いたわけではないのだが、60歳とか70歳ぐらいの方々だろう。
彼らがその場所に来る理由。彼らはそろってこう表現する。
「若い人と話すといい刺激になるから」。
確かにそうなのだろう。それは僕らにとっても言えることである。そして、そんな彼らと繰り返し接していると、やはり考えずにはいられない。
僕が彼らの年齢に達したとき、彼らと同じように新しい刺激を得ようという気持ちを持っていられるだろうか。そして、そんな気持ちを抱いたとしても、時には疎まれるであろうことを覚悟して、それでも勇気をもって若い人間たちの間に飛び込んでいけるだろうか。
自分の人生で得てきたことにうぬぼれて、
「20年かそこら生きてきたやつがいうことなんて、大したことじゃない」
などと切り捨てずにいられるだろうか。
少なくとも「最近の若いやつらは・・・」などと軽々しく、人間をカテゴリー化する人には無理なことだ。伝統のあるモノのみが価値があって、新しい技術は邪道なものとして触れようとしない人間にももちろん無理なことだ。
毎朝、大宮駅で宇都宮線に乗って終点の上野まで行く。同じ時間の電車で、いつも同じ車両に乗るから、その車両にはよく見る顔ばかり。毎日電車の中で化粧をしている人もいれば、とにかく寝ることを朝の車内の日課にしている人もいる。
さて、最近毎朝、赤羽の駅で一人の女性が乗ってくる。彼女は見た目にはそうとわからないが、妊婦らしく、「お腹にあかちゃんがいます」のキーホルダーがハンドバックについている。彼女が乗ってくるそのドアは優先席のある位置なのだが、朝の電車だからか、座っている人の多くは眼を閉じていて、彼女が席を譲ってもらえるのは、5日に1回程度である。
僕は電車の中では基本的にまず座らないので、彼女に席を譲るなどという機会はないのだが、僕が大宮駅で乗車して赤羽で彼女が乗ってくるまで、僕の周囲では何度も席が空いたり埋まったりしているわけだ。もし座ろうと思えば5割ほどの確率で赤羽までには席が確保できるのだろう。
その事実に考えが至ってふと思った。
僕のように普段座らない人間が、譲るための席を確保するために座る…。そんな親切の形もひょっとしたらあるのかもしれない、と。
多くの人間は人に評価されたがっている。自分が付き合う価値のある人間で、自分が話す価値のある人間であると…。普通に生きて、普段の自然な振る舞いから周囲の人にそう評価されるのであればそれはとても幸せなことで、それこそ才能と言うべきものだが、必ずしもすべての人にそのような才能は備わっていないのだ。
そんなとき人のとる行動によって、人は大きく二つのタイプに分けられると気付いた。人をけなす人、と人を褒める人、である。
人をけなす人の目的は、自分の周囲の人間の評価を下げて、自分の評価を相対的に上げること。一方、人を褒めることの目的は、もちろん単純に人を評価しているのだろうが、一方で、「この人は自分に以外の人間に寛容な人だ」などと評価されるだろう。
どちらが最終的に自分の評価を上げるかは言うまでもない。多くの場合、思春期のころに前者の考え方から後者の考え方へ推移するものだと思うが、不幸にもそのステップを踏まずに大人になってしまった人もいるのだろう。
そういう人は自分の評価を上げようとして周囲の人間を批判しながら、結果として自分の評価を下げていることに気付かずに生きていくのだ。
むむむ、なんか他人事ではない気がしてきた。



