品川駅で時間をつぶす必要があったので駅のスタバへ。ところが満席。自分のようにタバコの煙の嫌いな人間以外にとってはとりたてて居心地のいい空間ではないはず。それなのになぜスタバは支持されるのだろうか。
多くのフードチェーンは利益向上のために回転率を上げようとする。多くの人が空間に求める居心地のよさは回転率を下げるため、必ずしもそのフードチェーンの利益に繋がらないのである。つまり、「居心地の良さ」と売り上げは微妙に相反するのだ。そこでスタバスタイルである。渋谷の交差点の上。大宮駅コンコースの上。品川駅コンコースの上。せわしなく行き交う人を見下ろす位置に店舗を構える。
スタバが提供するのは「居心地のよさ」ではなく「優越感」である。そして、「優越感」に浸りたい人間のなんと多いことだろう。
しかたなく品川アトレのカフェへ。禁煙席に座ったものの、4メートルほど離れた位置にあるスツールがなぜか喫煙席…モクモクモク…つらい。
母が「寝る前に灯りを消すように」と繰り返す。
いやいや、何度も言っているが、立ち上がって灯りのひもを引っ張るぐらいの元気があったら起きてるっつーの。そんなに元気あるのに眠ってしまったら時間がもったいないじゃないか。それができないくらい眠いから眠るのに、その状態でひもをひっぱるなんてできないって…
英会話倶楽部で顔見知りの女性が、英語を学ぶ理由として、「家庭内の息子との会話を英語で行いたいから」と言った。最近よく聞く話だが実際はそれは子供の成長過程および将来にどのような影響を与えるのだろう。
実際には日本人の就いている大部分の職業において、英語能力は義務教育レベルで十分なわけだし、逆に、もっと英語を身につけたいと思ったら学ぶより先に英語圏に居を構えることでなんとでもなるのだから、そうやって幼いころから家庭内で英語を使うことは、無意味に思う人も多いのかもしれない。
しかし良く言われるように、子供のころの方が言語に対する抵抗も少なく、英語を身につける速度は速いのかもしれないし、こういう教育が注目されているのは、多くの日本人が言葉の壁を感じて、自分の世界を日本という狭い範囲にとどめてしまったことに後悔しているからなのだろう。
僕自身は、言葉の壁を感じて日本から出れないのは、言語能力よりも、勇気の問題だと思うのだが、家庭内で英語を話すというその教育手法には否定するつもりもない。
ただ思うのは、そうなるとその子供は母親と父親という2人の人間からしか英語を聞く機会がないわけで、そんな環境で、イギリス英語、アメリカ英語など多くの訛りが存在する英語を抵抗なく聞き取れるようになるのだろうか。ということ。同時に、その両親は英語力を維持するためにそれ相応の努力が必要ということだ。
美的センスといわれるモノに関して、世の中には3種類の人間がいる。
1.クールなものをつくることができる人間
2.クールなものは作れないが、クールなものをクールだと思える人間
3.本人がクールだと思っているものが、大部分の人間から見るとそうでない人間
3の人間が仕事の中に一人でもいると……つらいんだホント。
「そんなことして何が面白いの?」
こういう台詞を吐く人間は決して少なくない。そしてこの台詞を聞いた瞬間に、その人の僕の中でのランクは確実に下がっているのを感じる。「あぁ…この人、先入観で自分の世界を狭くしているんだろうな」と。
実際に、その事柄を面白いと思わないからそういう発言をしている人もいるのだろう。しかし、大部分の人は、実際には興味を持ちながらも、その事柄について知らないということを人に知られるのが嫌だから、「私はそのことに興味がないから知らなかっただけで、決して視野の狭い人間ではない」という人間を演じ、本人もそう思い込むことによって自尊心を守っているのではないだろうか。
どちらにせよ、その人はこの台詞によって、一つの物事に接する機会を大きく逸したことに変わりはない。そしてそういう生き方を繰り返すうちに人間関係も視野も狭くなっていくのだろう。
僕はこう思うのだ。誰かが好んで取り組んでいる物事なら、そこには必ず何かしらの「面白さ」が存在する。しかし一人の人間が与えられた人生の時間など限られていて世の中のすべての物事に取り組むことも、世の中のすべての場所に行くことも世の中のすべての人と話をすることも不可能で、その多くを諦めざるをえないのである。
だから、「そんなことして何が面白いの?」などと言う前に少し耳を傾けてみよう。少なくとも当てずっぽうで何かに取り組んだりするより、高い確率で面白い物事に出会えるかもしれないのだから。
「ほかの人が当然のように知っていることを、自分が知らないのが恥ずかしい」と思う人もいるのかもしれない。しかし、AさんとBさんという2人の人間がいたら、必ずAさんの知らないBさんにとっての常識があり、同じように、Bさんの知らないAさんにとっての常識が存在するのである。
自分の知らない文化や、初めて聞く話、そういうすべてのものに興味を抱き触れてみようとする人間こそ、魅力的であり一緒にいて楽しいと存在だと思うのだ。
とある企業のポスターを作成する際、大量のモデルの画像と見つめ合う時間があった。
モデルの女の子だから、当然現実に向かい合えば可愛くキレイな女の子たち。しかし、ポスターにしようと思ってそれらの画像を見てみると、多くの場合いろいろ気になる部分が出てくる。ホクロが多い、髪が乱れている、服が安っぽい、目が死んでる、笑顔が固い、肌ツヤが悪い、などである。もちろんプロのカメラマンが撮ったものだから、撮影時にもそれらの注意をしながら撮影したものだろうし、ホクロなんかは画像補正でなんとでもなる部分ではあるのだが、一方で全く補正しないでも使えるような写真写りのいいモデルもいるだけに、「この違いはなんなのだろう」と考えてしまう。
とりあえず思うのは、写真になったときに魅力的に写るかどうかは、その本人の容姿の善し悪しとは、世間一般的に思われているほど関係がないということ。どこにでもいる普通の女の子がファインダーを通して平面の世界に存在を移した途端にものすごく魅力的に変貌したり、逆に普段とても魅力的な女の子がファインダーを通した途端にまったく魅力のない人間に成り下がったりする。
テレビに出始めての頃には素人同然だった初々しい芸能人が、時が経つと共にキレイになっていくのは、きっとテレビカメラへの自分の映りかたを理解していくためだろう。写真も同じで、自分の写りかたを理解することで改善できる部分はあるが、それでもどうしようもない「写りかたの才能」というモノが存在するように思う。
普通に生きていれば「可愛い」とか「キレイ」とかもてはやされたはずの彼女たちは、彼女たちが浴びてきたその「可愛い」「キレイ」が通じない平面の世界へまで、何を思って存在価値を見出そうとするのだろう。
僕が渡り歩いてきた10人規模の小さな会社の経営者たちは、新しい人を雇う際には決まって、判断力、吸収力、応用力といった能力を重視していた。もちろんデザイン力、企画力なども必要だが、それだけでは長く高いパフォーマンスを維持できるはずもないのである。
すでに大きく成長した大企業と違って、発展途上の小さな会社では、社内の環境も、作業の流れも、社内ルールも常に変化を強いられる。となるとそれにすばやく適応し、目の前の作業だけでなく、それが会社のポリシーに反しないうえで利益に繋がるのかを考えながら仕事ができなければならないのは当然である。また、業界的にも新しい技術がどんどん世に出てくるだけに、元々持っている知識や能力で満足しているような人間は2,3年もすれば「使えない人間」に成り下がるのである。早い話、小さな会社はいつだって「常に考えることを怠らない人間」を求めているのである。
そんな採用ポリシーを持っていたから、時にはハズレの人材を雇うことはあっても、僕が過去所属していた会社は、全体的には「判断力、応用力を備えた、考える人間」の集団となっていた。
しかし、経営者たちも人間だから完璧ではない。明らかに効率の悪いと思われる方法での作業を指示したり、給与明細を給料日までに渡しそこねたり、始業時間を守ることを社員に求めながら、遅刻社員になんのお咎めもなかったり、寝る暇もないほどの仕事を与えながらもさらに営業向けの勉強を強いたりと、時には明らかに非のある行動をしたりする。
そうなると「常に考えることを怠らない人間」である社員たちは黙っていない。
「会社が給与明細を給料日に渡さないってことは、俺たちも仕事を納期に間に合わせなくてもいいってことですかね?」
「始業時間守らなくてもなんのお咎めもないなら、明日から俺も遅刻して来るようにしますね。」
「俺たちに勉強を強いる前に、もう少し経営者として社内の状況を把握する勉強をしてください。」
そういうときだけそんな経営者たちは思っていたはずだ。
「言われたことを黙ってやってくれる社員がいい」と。
毎朝の電車。最寄駅から最初のターミナル駅である大宮駅までは6分程度。毎朝の通勤区間の中で都心からもっとも遠く離れたこの路線がもっとも混んでいるのは、東京通勤圏ぎりぎりで生活する以上避けられない運命なのだろう。
大宮駅に着くと、そこから乗換までに4分程の猶予しかない。周囲の人の歩く速度に合わせていたらまず間に合わない。とはいえ走るスペースもないし、やや危険。人の足の動きに注意し歩く速度の緩急を使い分けて人と人の間をすり抜けていかなければならない。
さて今日もいつものように電車を降りると歩く速度を速める。私鉄からJRへの乗り換えのため、首に提げていた定期券入りのケイタイを左手に持ち変える。歩く速度に影響を与えないように、ケータイを持った左でも右足と同期し続ける。
数人を抜き去ると、前を女子中学生2人組みの壁が出現。2人連れは位置の前後がずれないから隙間が空きにくい。それでも強引に中央を抜けるか、それとも左か右に迂回するか…しばし思案する。そこでふと、とんでもないことに気づいた。
ひょっとしてこの状態。ケータイカメラでスカートの中を盗撮しようとしているように見えるのではないか……ああ、通勤のときに何が恐いって冤罪が恐い、カワイく弱い者の味方をする社会が怖い。「あいつは痴漢だ」と言えば自分の考えも持たずにとりあえず同調しようとする日本人が恐い。
母がSuicaを失くしてしまったという。
「落し物で届いているんじゃない?」
というと
「Suicaなんて自分のものだって証明することできないじゃん」
と反論された。
いやいやそんなことはない、確かに定期の機能を載せていないSuicaには名前などの個人情報は一切ないが、何月何日にどこからどこへ乗車したか、どこのコンビニでSuicaを利用したかが詳細に記録されているのだ。それはもはや本人にしかわからないのだから、十分証拠能力はあるだろう。問題があるとすれば、警察が落し物の持ち主の照会にそこまで時間をかけるかということだ。……恐らくしないだろう。
もしSuicaの落し物が、親切な人の手によってJRの窓口に届けられたなら、JR職員が記録を照会して、その持ち主が頻繁に利用している駅の窓口までそのSuicaを送る、なんてことも可能だが、そんなことも恐らくしないだろう。
スカッシュやサッカーなどのスポーツをこれからも辞めるつもりはないが、年齢とともに、いずれ自分の思い通りの動きができなくなる日が来るのだろう。そしてそんな日を迎えてから「俺は昔はすごかったんだぜ…」というような発言を繰り返す人間にはなりたくない。
となるとそろそろ一生楽しめるような生涯スポーツへの取り組みも開始すべきである。ということで半年ほど前から候補に挙がっていたのがビリヤードと社交ダンスだった。何かを新しく始めるとき、それは新しい人間関係を築くチャンスでもある。どちらが目的でどちらが手段なのかは自分の中でも常にあいまいだが、とりあえず先日都内で活動しているビリヤードサークルに参加してこんなアドバイスを受けた。
「ビリヤードは一人で定期的に練習しないとうまくならないよ。」
まあ、そりゃそうだろう。頭では理解していたが「一人で練習」というものがなぜかハードルが高く感じて、今まで実現できずにいたのだ。
とはいえ、この刺激を自らの行動力に変えるべく、職場、自宅近辺のビリヤード場を調べてホームコートを検討し始める。いくつかあった候補地の中から厳選するために、と最初に立ち寄ったバグース大宮店。ビリヤード場というのは、もっと煙草臭いイメージがあったのだが、改装してダーツの数を増やしたバグースは非常に清潔でいい雰囲気。これなら仕事帰りに通うのも無理なくできそう。
とりあえず月曜日はビリヤードの日。
先日、ネット上で知り合ったイギリス人の友人に英語の表現について尋ねていた。彼は言った。
「ははは、そんな英語はないよ。確かにあってもよさそうな気もするけど、でも多言語を勉強するときに勝手に言葉を作っちゃうのはよくあることだね。」
彼の母国語は英語で、日本語も北海道にいたことがあるので話すことができる。
「へえ、じゃあ君も、変な日本語を作っちゃったりしたの?だったら聞きたいね。」
彼は言った。
「中丈夫、小丈夫」
「へ?」
「いや、『大丈夫』で『大』があるなら『中』と『小』もあるのかなーって思っててね」
小丈夫…これはきっと死にそうなときに使うんだろうな。



