2007年10月21日

「フィラデルフィア美術館展」東京都美術館

芸術の秋だからというわけではないのだが、スポーツクラブが何故か休館日だったのでフィラデルフィア美術館展に行ってきた。

写実主義、印象派、の18世紀前半コローやピサロから19世紀前半のキリコやマグリットまで画集やインターネットなどで見慣れた画家達の作品が勢ぞろいしていた。例によってアートと名のつくものは言葉にしようとすればするほど陳腐になるだけなのだが、個人的な記録の意味も含めて、いろいろ思ったことを書いてみる。

全体的にリアルな人物画を描く画家が少なかったので、というのもモディリアーニの描く人物は例によって面長で白目を向いているし、マティスやルオーの人物画もどちらかというと人間離れしている。ピカソやレジェのそれはもはや人間ではない。というわけで、ルノワールの人物画は今回の展覧会自体が目玉として推しているだけあって、常に大勢の人に囲まれていて、個人的にも赤味を帯びた皮膚のルノワールの人物画は魅力的だと思う。

当然これだけたくさんの画家の作品が集まっていれば好き嫌い分かれるもので、フォーヴィズムと言われて原色を多用するマティスの絵のよさなど自分には特に理解できない。ただその一方で、同様に色を多用するシャガールを自分が好むことにふと気付く。結局、芸術的感性は言葉では説明できないということか。

さて、普段、本や画集やインターネットで見ている分、展覧会に足を運ぶ際は、その実物の大きなキャンバスの迫力に触れたいという期待は高まり、その一方で実際見てみたら驚くほど小さかったなどと失望することもよくあるのだが、今回は幸いにもそれはなかった。特にキリコの「占い師の報酬(The Soothsayer's Recompense.)」やルソーのお得意のジャングル「陽気など道化たち」は画集などでは大した絵に見えないのだが、実物の大きなキャンバスを前にするとその迫力と雰囲気に飲み込まれるだろう。

日本人はゴッホとモネが好き。とはよく言われることだが、人の流れを見ていると本当に顕著に好みが分かれる。実は僕はゴッホもモネもあまり好みではない。とはいえ個人的に割と好みであるルオーやカンディンスキーの周囲が閑散としているのはじっくり見れるという面では嬉しいが、少し悲しくもある。

巡回ルートの最終セクトは「アメリカ美術」。ここにきてようやく自分がアメリカ美術をほとんど知らないことに気付く。せいぜいポロックとアンディ・ウォーホルぐらいだろうか。そもそもあまり画家の出身地など意識してこなかったのだが、せっかくだからこれを期に少し目を向けてみよう。また違った側面で面白さが見出せるかもしれない。

さて、11時前には一通り見終わって、もう一度最初から気に入ったものだけ見直そう、と自分にとっては御馴染みの儀式に移ろうとして入り口付近に戻ると、そこはすでに身動きの出来ないほどの人、人、人。実は国立新美術館のフェルメールへとはしごしようと思っていたのだが、人の多さにまいって断念。やはり展覧会は平日行くに限る。

とりあえず出口付近で、親孝行した気になるために、モディリアーニとルノワールのミニフレームを各1個ずつお土産に購入。この文章を書いている時点ですでに自宅のリビングに飾られている。

とりあえず、フィラデルフィア美術館展、当日券1500円。お得と言っていいだろう。

投稿者 masato : 14:01 | コメント (0)

2007年10月20日

右脳の育て方

論理的な思考を司る左脳、直感的な思考を司る右脳。右脳と左脳をバランスよく使える人間が、より世の中に多くの楽しみを見出せると常々感じている。ただし、これは先天的なものではないと聞く。誰しも幼い頃は右脳が発達し、歳を取るに従い左脳を主とした思考に切り替わっていくのだそうだ。

さて、そうすると思い出されるのが、僕の小学生低学年の頃の体験である。図工の授業で、絵の具を持って校庭へ出て絵を描く課題を与えられたときのこと。大した対象物もなかったから、みんな季節外れの桜の木を描いていた。そして、その授業の終わりが近づいて教室に戻ってみんなの絵を見たとき、桜の幹の色を灰色で塗ったのが自分だけだったことを知った。他の生徒たちはというと、桜の幹を茶色に塗っていたのである。ちなみに、今でも僕の中のその色の認識は変わらない。「桜の幹の色は何色?」と尋ねられて、名のある色のどれかを挙げなければならないなら、やはり「灰色」もしくは「グレー」と答えるだろう。

何が言いたいかというと、小学生低学年ですら、すでに大部分の生徒が「木は茶色」という論理的思考を当然のように持っていたということである。芸術の分野において、論理的思考は時に大きな妨げとなるらしい。例えば、人物画を描く際に「鼻は2つの目の中心の真下にある」といった論理的思考を介在させる限り、上手い絵はかけないだろう。なぜなら、確かに鼻は目の中心の下にあるのだが、それは正面を向いているときに限ることで、対象の人物が真正面を向いていることなど稀である。

話が少しずれたが、小学校時代の体験の話に戻ると、結局、右脳よりの思考から左脳よりの思考へ切り替わる転換期は、実は小学生よりもっと前の幼少期にあるらしいということだ。

そうなると芸術的感性をの豊かな子供を育てたいと考えている世の親たちは実は、もっと子育てに注意すべきなのかもしれない。少なくとも子供と過ごすお絵かきの時間に、勝手にクレヨンを差し出して、「空は青」、「太陽は黄色か赤」、「葉は緑」、「木は茶色」、などといった、右脳的思考を妨げる概念を不用意に植えつけるべきではないのだろう。

投稿者 masato : 22:35 | コメント (0)

2007年10月19日

NHK交響楽団「グリーグ没後100年・シベリウス没後50年」

NHK交響楽団〜グリーグ没後100年・シベリウス没後50年〜が埼玉会館であったので行ってきた。

E.H.グリーグ
 「ペール・ギュント」第1組曲 Op.46より <朝の気分>、<アニトラの踊り>
 「ペール・ギュント」第2組曲 Op.55より <ソルヴェーグの歌>
 ピアノ協奏曲イ短調 Op.16

J.シベリウス
 交響曲第1番ホ短調 Op.39

エルガー
 2つの小品 Op. 15 No. 1 「夕べの歌」

指揮:藤岡幸夫
ピアノ:仲道郁代

いろいろ心に残ったものはあるのだが、それを言葉にできるほどの知識を持ち合わせていないのでその辺は次の機会に。とりあえず、好きだった<ソルヴェーグの歌>が生で聴けたのは大きな収穫だった。

投稿者 masato : 23:17 | コメント (0)

2007年10月18日

オタクを認めない人たち

TBSの「アッコにおまかせ!」が「初音ミク」というソフトについて意図的な報道をしたとして、軽く騒がれていたようだ。さっそくニコニコ動画で問題の映像を見てみた。確かに「オタクは気持ち悪い」的な意図が見え隠れして、本来の製品に対する視点が途中からどこかへ行ってしまっている気がする。

つくばエクスプレスが開通し、メイド喫茶が注目を集め、もはやアキバ系を含むオタク(今は「ヲタ」と記述すべきなのだろうか?)の存在も認めらたように思っていたから。オタクと呼ばれる人たちを蔑む風潮が今も公共のテレビという中に存在していることに少し驚いた。

とりあえず思うのは、「オタク」という言葉を蔑みの念を込めて使う人に限って、世の中の流行り廃りに振り回せれて何一つ熱く語れるモノを持っていないことが多い、ということ。周囲の目を気にせずに思いっきり好きなことに打ち込んでいる「オタク」と呼ばれる人々と比較したら、僕にとって尊敬すべきは明らかに後者である。

ついでに言うと、新しいものを初めて目にしたとき、耳にしたときに、「好奇心」よりも「拒絶反応」が先行する人もまた、往々にしてつまらない人が多い。

投稿者 masato : 15:18 | コメント (2)

2007年10月14日

汎用性の維持のために

新聞の購読率が落ちているという。インターネットの普及と世間の環境問題への関心の高まりを考えれは当然である。

もちろん、今まで新聞で多くの情報を得ていた人たちはインターネットと言う手法にシフトしたわけだが、それはつまり「欲しい情報だけを得る」という方向へ情報を得る手段が変化してきていると言える。

この流れは何も新聞というメディアに限ったことではない。例えばテレビのようね映像媒体である。インターネットを通じたオンデマンド放送が既に広がりを見せ、さらにニコニコ動画やYouTubeなどの動画アップロードサイトも一部のユーザーにとっては必要不可欠となっている。つまり映像媒体もまた「見たい番組だけを見る」という形へと確実に変化しているのである。そして、この流れは2011年の地上波アナログ放送の停止をもって一気に加速するだろう。

この変化は「無駄を省くことができる」という面では喜ぶべきことなのかもしれない。しかしどんなものにも長所と短所はあるもので、インターネットを新聞代わりにするということは、今まで、1面からスポーツ面へと大きな紙面をめくろとしたときに、ふと目に止まった社会面の記事に興味を持つ、などということは、これからはなくなるわけだ。テレビについても同様に、普段見ている番組を見終わってから、少しぼーっとしているうちに次の番組が始まり、面白そうだったからそのまま見てしまう。ということもなくなる。

つまりだ、興味のある部分はひたすら情報が入ってきて、興味のない部分についてはほとんど入ってこない。そんな情報環境への変化とも言える。そして、そのような環境で育つのは、限られた情報ばかりをひたすら得た、いわゆる専門性の高い人間なのだ。

多くの社員を抱え、分業化が徹底している大企業にとっては専門性の高い人間は大歓迎である。しかし、ベンチャー企業やプライベートでは、「木を見て森を見ない」人間ほど扱いにくい人間はいない。専門性も重要だが汎用性も決しておろそかにしてはいけない。技術があっても視野の狭い人間はその技術を有効利用はずもないのだから。

すでに先端技術を使いこなしていると自負する方々は、そろそろ汎用性を維持するため情報収集方法を考え始めるべきなのかもしれない。

投稿者 masato : 13:53 | コメント (0)

2007年10月09日

「小学生」らしい「小学生」

最近思ったこと、辻希美、加護亜依(どちらも元モーニング娘。)、安達祐美、最近で言うと志田未来なんかも同じ匂いがする。小学生のときに注目を浴びた芸能人はなぜ高い確率で童顔のまま成長するのだろうか。そんなことを考えて一つの結論に達した。

「小学生」という触れ込みで世間の注目を集めるためには、それは「小学生」らしい「小学生」である必要があったのではないか。しかし、視聴者である大人たちが育ってきた時代と、その小学生の育ってきた時代とでは、当然文化も環境も異なり、考え方も違うはず。そうなると、大人達が思う「小学生」らしい「小学生」とは、実際の小学生のスタンダードとはかなりかけ離れたものになるだろう。よく学校の校則などに書いてあるような「中学生らし身だしなみ」が実際の中学生の身だしなみからは遠くかけ離れているように。

そんな大人たちの「小学生」像を満たすために選ばれた「小学生」らしい「小学生」が彼女たちだったのかもしれない。そして、彼女達が二十歳を超えて、そのお世辞にも大人っぽいと言えない姿を認めてようやく、大人たちは、彼女たちが実はスタンダードな小学生ではなかったことに気づくのだ。

投稿者 masato : 00:00 | コメント (0)

2007年10月08日

整形手術

整形手術は是か非か。これに対する答えは生きている文化によって大きく違うらしい。やっぱりというべきか意外にもと言うべきか日本には否定的な意見がまだまだ根強く残っているらしい。ちなみに僕の意見はというと、「特に反対はしない。」というもの。それはどういうことかと言うと、例えば身近な人が整形手術を受けようかと迷っているなら。とりあえずデメリットとメリットを列挙させて、そのすべてを吟味した上でも、手術をしたいと言うなら、止める理由もないしむしろ応援するだろう、というもの。結局のところ整形手術に限らず、本人が深く考えた上で決断したことで、特に人に迷惑をかけないものなら反対する理由などないということだ。

日本という国はどうやらピアスなども含め「体を傷つける」と認識されるような行為を嫌悪する傾向があり、それが未だ整形手術という文化が市民権を得ていない大きな理由のようだ。しかしだ、日本人の多くは虫歯の治療の際、骨折の治療の際に体に傷をつけているのだから面白い。整形手術という題材のときだけ「傷つけるのは邪道」と叫ばれても説得力は感じないが、こんなことを書くと、「怪我や病を治療するためにつける傷なら問題ない」という反対派の声が予想されるので付け加えておく。(というよりもここが一番言いたいこと)。それならば「怪我・病」とはなんだろう。僕が思うその定義はこうだ。「人の中に存在し、放っておくと快適に生きるのに支障をきたす状態のこと」。

それであれば「整形手術」とは「マイナス思考」という病(怪我)を治すための治療と解釈することが出来る。

参考サイト
Wikipedia「美容外科」
投稿者 masato : 01:00 | コメント (0)