人の良くない振る舞いを直す方法として、一生懸命話して納得させる方法しか僕にはできない。もちろん頭ごなしに怒鳴りつける方法もあるが、この方法が使えるのはせいぜいサッカーの試合中ぐらいで、日常の中ではあまり有効な手段ではない。
こんな方法もあったとは、朝からいい話を読んだ。
平日の会社帰り。上野から大宮へ向かうには、宇都宮線か高崎線しかない。いつものように吊り革の下で本を開いて物語の中に入り込む。ふと気づくと列車はすでに赤羽を過ぎていて、上野を出たときには乗っていたのかそれとも赤羽からなのか、少し離れた吊り革の下に七十は過ぎていると見える老婦人が立っていた。仕事を終えて疲れているのか、座席に座っている人はもちろん、近くの優先席に座った人たちも席を譲ろうとはしなかった。
僕はそれでいいと思っている。もしこの場面で、「自分を善と信じる」人が、優先席で座っている人に向かって、「席を譲ってあげたらどうだ?」と抗いようのない言葉をぶつけるようなら、それこそ問題である。この時間帯に座席に座っている人は、一つ電車を待って、20分ほど並んでその席を手に入れたのだから。優先席に座っている人についても。誰も彼等の心臓にペースメーカーが埋まってないなんてわからない。妊娠してないとも怪我をしていないとも、誰にも断言できないのだから。
昨年の話。ひょっとしたら記憶にある人もいるだろう。日本人の若い写真家がアメリカで消息を絶ち、その両親はmixiの日記に次のようなことを書き込んだ。
そして、それを読んだ「自分を善と信じる」人が、自分の日記と参加しているコミュニティのトピックに次のような文を書き込んだ。
その結果、mixi上に存在する数多くの「自分を善と信じる」人達によって、同様の内容のトピックがコミュニティの内容と関係無しに乱立していった。「コミュニティと関係のないトピックを立てるな」「人の命がかかっていれば何をやってもいいのか?」という意見によって一部収束したとは言えもはや焼け石に水。結果として、その両親の日記のコメント欄には、「息子さんの無事を祈っています」とか、「気持ちを強く持ってください」などといった、「自分を善と信じる」人達の実質的に何の役にも立たない大量のコメントで上限に達し、本当に必要としている息子の消息に関する情報を受け付けるができなくなったのである。
人の行動。それが「善」であれば世間は歓迎する。「悪」であれば世間はそれを止めようとするだろうし、当人の心の中にある罪悪感もブレーキとなるだろう。しかし、本人が「善と信じる行動」、一見「善のように見える行動」。これを止めようとするのは大きな勇気がいる。僕の思う世の中でもっともタチの悪い行動がこれである。
浅はかな行動は、時に罪だ。
時間をとって、お互いの気持ちを語ろうとしているときに、「あなたもいつかわかるよ」とか「お前はまだ子供だからわからないんだ」とか言って、それ以上、気持ちを説明しようとしない人がいる。
「いつかわかるよ」「あなたにはわからない」この類の言葉って、自分の行動や考え方に矛盾を抱えながらも、それに気づかないふりをして誤魔化して生きていく人にとっては、ものすごく便利な言葉だ。
僕たちが小さかったころ、好奇心旺盛な子どもたちは、何かに興味を持つと、そのことを知るために親に尋ねたり、人によっては学校の先生に尋ねたりしたのだろう。当時はそういうことでしか好奇心を満たす方法はなかったのだ。さすがに虫眼鏡を持って道端のフンコロガシを一日中眺めているなんて行動が許されるほどの平和な時代はすでに終わっていたのだから。
しかし、人によっては父親が仕事でいそがしく、子供が起きている間に家に帰って来ないなどという家庭もあったるだろう。早く帰ってきたとしても、子どもの質問に対して納得の行く答えを用意できない親もいたのだろう。担任の先生に尋ねたとしても、「そんなことは知らなくていい」と突っぱねる先生もいたのかもしれない。あの当時の好奇心というのは、そうやって多くの部分を環境に依存していたのである。
ところが今はどうだろう。インターネットという、おそらく多くの家庭に備わっている設備と、その検索方法さえ知っていればたいがいの好奇心は満たされるのである。僕は思う。今の小学生、中学生たちが成人になったころ。好奇心旺盛な人と、そうでない人の知識量の差は、取り返しのつかないほどに広がっているに違いない。



