東京都知事選。候補者の政見放送がYouTubeに投稿されたことによって、インターネットを利用した選挙活動解禁の気運が高まっているという。これに対して、慎重派の意見こうだ。「短い選挙期間中に特定候補の批判に火がつくと決定的な打撃になりかねない。」
確かにインターネットはそのような事態を引き起こす力を持っている。ただ、インターネットを利用した選挙活動を制限しようとしたところで、もはやそれを止める手段はない、さっさと解禁してその先の法整備に努めた方が賢明なのではないだろうか。
インターネットを日常的に利用している人なら分かるだろう。文字と画像しかアップできなかった4,5年前まで異なり、現在は、音声や動画も容易に匿名でアップすることができる。音声や動画のインパクトは画像や文字だけのときとは大きく異なり、不確かな発信元の情報であろうと、人々が欲しているものであればすぐに広まり、多くの人の目に触れてしまうのだから。
さて、では何が問題なのだろう。結局、「世の中に溢れる情報を、疑いもなく信じてしまう人が多すぎる」ということにつきるのではないだろうか。やはり日本は集団行動を重視する文化。みんなが右を向けば何も考えずに右を向く人が多いし、メディアの情報を疑いなく信じる人もまた多いのである。
多くの人が頭の中では理解しているのだろう。テレビの番組は視聴率を稼ぐために、視聴者の知りたがる仮説を演出するということ。新聞の記事でさえも時には事実に反しているということを。つまり、今の大量の情報が溢れ返る社会を生きるためには、それら対して常に多少の「疑い」を持って接することが必要なのだ。極端な話をすれば、どんなに信頼のおける友人の言うことさえも事実と異なる可能性があるし、自分の目で見たもの、聞いたものさえも、なんらかの先入観によって誤って受け入れられている可能性があるということである。
多くの人にこのような生き方ができれば、特定の個人や企業が不必要に批判にさらされることもないし、納豆が売り切れることもないだろう。
しかし、これは口で言うほど簡単ではない。情報に対して「疑い」を持って接するためには、世の中の仕組みや最新の技術の知識を備えていることが必要だからだ。例えば「視聴率が制作側の評価につながる」という社会の仕組み。音声や映像を加工する先端技術。国や組織の間の利害関係。それらの知識を持っていてこそ初めて、「この番組はヤラセかもしれない」「この映像は加工されている可能性が高い」と、発信元に応じた「疑い」を持って、その情報に接することができるのである。
今の情報化社会はまだまだ飽和しているとは言い難い。今後キーボードアレルギーの人は確実に減っていき、PC、携帯電話からのインターネットアクセスはますます高速化することだろう。つまり、今後ますます情報の多様性は増えるし、それに接する人も増える。もちろん、若い人から年取った人までそれらに接する世代も広がることだろう。僕は思う。そんなすべての人たちに、上で述べたような情報への接し方を求めるのは少し酷なのではないだろうか。
教育問題は山積みである。
投稿者 masato : 2007年04月30日 12:59


