1997年10月から2006年6月までの期間に、ドナーカード・シールを所持していたと日本臓器移植ネットワークに情報が寄せられたのは1121件、そのうち713人は脳死での臓器提供意思を表示していたが、提供指定施設ではない施設にいたり、脳死判定が間に合わなかったりしたため、実際に脳死判定段階に至ったのは212人、さらに家族の承諾が得られなかったり、脳死でなかったりして、そのうち臓器提供に至ったのは47人だという。
そんな記事を目にしたので、今回は脳死者からの臓器提供の是非を問う鍵となるラザロ兆候について僕の考えを書いてみる。ラザロ兆候とは臓器を摘出する際に脳死者が手足を激しく動かしたりする現象のこと。そんため臓器摘出の際にはラザロ兆候を抑えるために麻酔や筋弛緩剤を投与するのが一般的なようだ。
臓器移植に関する意見を見聞きしていると、脳死移植に反対する人は、このラザロ兆候を脳死者が痛みを感じている結果と主張し、脳死移植に賛成する人は、ラザロ兆候は脊髄反射であると主張するのことが多いようだ。
僕は脳死移植に賛成する立場の人間であるが、実はラザロ兆候が脊髄反射であろうが、脳死者が痛みを感じた結果だろうがどちらでもいいと思っている。これは人それぞれ考え方が違うので「痛みを感じるなら嫌だ」という考えも尊重したいとは思うのだが、とりあえず僕が脳死になった場合は遠慮なく臓器を摘出してもらって構わない。なぜなら痛みを感じていようがいまいが一生眠ったまま家族の世話になるのなら、さっさと死んで他の人の役に立ったほうがいいからである。例え脳死者が痛みを感じていようとも、摘出の際に麻酔や筋弛緩剤を投与してくれるなら安心である。
高校の必修科目履修漏れ問題が予想以上に波紋を広げているようだ。受験生達のことを考えると何も受験間近のこの時期に表沙汰にしなくても良かったのではないかという気もするが、公になってしまった以上対応せざるを得ないのだろう。
この問題は1年もすれば収束するだろうが、学習指導要領と受験科目の間に挟まれた高校のジレンマは消えないに違いない。一流の大学の合格者数がその学校の評価に直結するからだ。視点を変えれば出身大学を重視する日本の社会が生み出した問題と言えるかもしれない。
しかし、ここまで生きてきて僕は思う。出身大学というブランドに頼って一生を送る人はどれほどいるのだろう。確かに新卒入社の際は出身大学名は大きく採用・不採用に影響を与えているし、最初に入った業界内での転職にも大きな力を発揮するだろう。しかし今はそんな生き方ばかりじゃないはずだ。突然自分のやりたいことに気付き違う業界へ転職する人。自然の魅力に気付き離島に移り住む人。理想の生き方を探し求めて転職を繰り返す人。会社と言う組織に縛られるのを嫌い、フリーになる人。少なくとも僕の周囲にはいろんな生き方をしている人がいる。
確かにそこに安定はないかもしれないが、僕にはそんな生き方の方がずっと魅力的に映る。そして仕事という狭い世界に固執しないそんな生き方にこそ、幅広い知識が必要なのだ。世の中がそんな生き方に魅力を感じるようになれば問題は少しずつ消えていくことだろう。
そんな時代は当分来ないとは思うが。
さいたま市都市局の女性主事(32)が今年4月、精神疾患で休職中に、法科大学院に入学していたことが25日、分かったという。女性主事は1か月で退学したが、市は「病気による休職期間中は療養に専念する義務がある」として、近く処分する方針。女性主事は、通学していた期間中、給与として約18万円の支給を受けていた。
ニュースになるほど責められる様なことだろうか。精神疾患の人への最良の治療法はその人が一番したいことをさせてあげることだと思う。まして、それまで働いていた人間にとっては、精神疾患で働けない期間を「できる限り有効活用しよう」と思うのは当然である。大学院に入学していたっていいじゃないか。僕自身も療養中のこの期間、放送大学しようかと思って願書取り寄せたぐらいなのだから。この女性主事を責める人は「家で大人しくしているべき」とでも思っているのだろうか。家に閉じこもることで悪化させる人もいるというのに。「療養に専念」って具体的にどういうことを言っているのだろう。まだまだメンヘラーに対する世間の理解力は乏しいようだ。
ちなみに休職中なのに18万円もの給与を支払っていたさいたま市都市局を責めるなら理解できる。僕が今まで勤めていた会社では考えられないことだ。
先日、遅ればせながらSecond Lifeの世界に生を受けて、ここ一週間ほど世界を歩き回っていた。しかし、未だにこの世界で生きる意味が見つからない。
Second Lifeの世界では現実の世界、つまり僕がこうしてブログを書いている世界を「First Life」と呼ぶ。Second Lifeの世界ではFirst Lifeのビデオカードの性能が視力と運動神経に大きく影響を及ぼし、知性はFirst Lifeのものがそのまま利用できると言っていいだろう。
一週間ほどSecond Lifeの世界にいて感じた不思議なこと。綺麗な女性を見ると足が止まる。ときどきSecond Lifeの中の音が、First Lifeの音と区別がつかなくなる。日本語を話せる人が少なくて寂しい、など。五感が無意識にSecond LifeとFirst Lifeを混同していることに気づく。
また、Second Lifeでの行動はFirst Lifeでの行動と同様に考えることもできる。先ほど「未だSecond Lifeの世界で生きる意味が見つからない」と書いたが、このまま生きる意味が見つからなければそのうちSecond Lifeで生きることを辞めるだろう。つまりそれはFirst Lifeの世界で言えば「自殺」と同義である。したがって、「残された人の気持ちを考えろ」「生きていればそのうちきっといいことがある」など、First Lifeで自殺志願者達に向けられる声が、そのままSecond Lifeでも当てはまる。それでも僕はSecond Lifeで生きる意味が見つからなければ二度とログインしないだろう。僕はFirst Lifeでも自殺否定論者ではないから特に矛盾は感じないのだ。
とりあえず日本語を話せる人が増えるのを待つとしよう。今日も僕は桃源郷にいる。
箸の持ち方がおかしい人を見ると正直ひく。好きな芸能人がテレビで妙な箸の持ち方をしていると悲しくなる。おそらく幼稚園に入る前から毎日のように使っている箸に対して、正しい持ち方を知らないなんて向上心の欠如を感じるからだ。ところが先日ふと気づいた、食卓を共にする父の持ち方と僕の箸の持ち方が微妙に異なる。僕の中指は上の箸の下に添えているのに対して、父の中指は上の箸の上に乗っている。ひょっとして正しいと思っていた僕の持ち方は正しくなかったのだろうか。そう気になって箸の持ち方を調べてみた。僕の持ち方が正しかった。そうすると一体僕は誰に箸の持ち方を教わったんだろう。
時代の流れを考えると、そのうちブラインドタッチが出来ない人を見るとひくようになるのかもしれない。頑張れ自称常識人達よ。
母が新聞のとある記事を見るように言った。そこには「脳骨髄液減少症」という病気に関するニュースが載っていた。その病気の内容に興味を覚えたのでインターネットで細かい症状を調べてみた。
・激しい倦怠感、脱力感
・気力の低下(やる気が出ない)
・集中力の低下
・思考力の低下(本を読めない、物事を考えるのがつらい)
・記憶力の低下(物事や人の名前などを思い出すのに時間がかかる)
・睡眠障害
・うつ状態
・起立性頭痛(立ち上がった時に「頭がグラッとする感じがする」など)もしくは常に頭痛がする
・頭重感
・後頭部から首、背中にかけての張りと痛み
・背中の痛み
・腰痛
・目の痛み
・顔面のしびれ、痛み
・四肢のしびれ、知覚の低下
・息切れや動悸
・汗の出方がおかしい
・体温の調節がうまくいかない
・疲れると目の焦点が合わない(複視)
・めまい、立ちくらみ
・耳鳴り
・視力の低下
・吐き気
・食欲不振
ここ1年半にわたって経験したことがすべて含まれている。パズルのピースが見つかったみたいだ。
最近、飲酒運転と並んで注目されているのがいじめの問題である。相談されたことを他の生徒達に暴露した先生や、いじめの事実を隠そうとした学校や教育委員会に非難が集まっているが、「いじめの事実を隠すな」といくら世間が訴えたところで大きな改善を望むのは難しいだろう。医者が医療事故を隠し、政治家が不正を隠すのと同じで、人間が自分の悪い部分を隠そうとするのは自然な行動である。すべてを失くす事などできるはずがない。ではどうすればいいか。いじめの被害者や、周囲に流されて仕方なくいじめに参加している生徒達がその事実を明るみに出すシステムをつくればいいのではないだろうか。
学校で生徒から先生へ訴えるのでは、生徒にとって様々なリスクが伴う。そこで、名前を明かさずに生徒から先生へ、生徒から教育委員会へ、生徒から都道府県へ、直接訴えることのできる窓口を作ってみてはどうだろうか。今のネット社会の利便性を利用しない手はない。いじめの実態を訴えたい生徒はどの学校の何年何組でどんないじめが起こっているかを訴える、頭の中に浮かんだのはそんなサイトである。もちろんこのシステムによって、悪意ある生徒たちによって特定の教員や生徒が標的にならないとは言い切れないが、それは送信内容などからある程度推測できるだろうし、そんなものはそのような自体が起こってから対処方法を考えればいい。とりあえずそれを理由に動かないのは言い訳にしか聞こえないのだ。
ここまで考えて、「今の世の中、そんなシステムはとっくに誰かが作っているだろう」と思って探してみた。出身中学校のサイトを見てみたが見当たらない。埼玉県教育委員会のサイトには窓口が設けてあるが電話番号が書いてあるだけである。悪いこととは言わないが電話は敷居が高すぎるだろう。埼玉県のサイトにも電話番号が相談受付窓口として書いてあるだけである。ついでに東京都のサイトと東京都教育委員会のサイトも覗いてみたが似たようなものである。
僕のイメージではトップページに「いじめ被害の告白」などと言った目立つ色の入り口を設けて、その先に簡単なフォームを用意しておくだけでいいと思うのだが。まさか「そんな方法は考えもしなかった」などということはないだろう。結局「いじめをなくそう」などと大きな声で叫んでおきながら、責任の所在を探しているだけで何も変えようとしていないのではないだろうか。
「すべての人の命は等価」。そんなことを自信を持って主張できる人は少ないだろう。いるとしたらその人は、家族や友人などの親しい人のいない寂しい人間に違いない。なぜなら親しい人間の価値が見ず知らずの人よりも高いのは、感情を持った人間ならば当然のことだからだ。では見ず知らずの人の命ならばそれは等価だろうか。この問いに対してもこんな反論が予想される。先の人生の短い老人の命よりも、未来のある若い命の方が価値がある、と。では、見ず知らずの人で同じ年齢だったらその命は等価だろうか。この問いに対しては「イエス」と答える人が多いのではないだろうか。
以前、「子供の臓器移植」というテーマを書く際に知ったことである。重い心臓病を患う1歳の男の子、松田京大(けいた)君がアメリカでの心臓移植をするために、移植に必要な治療費など8,000万円を目標に募金活動を行った。その結果、9月8日の「けいた君を救う会」のサイトで目標額到達の報告がされている。一人の子供を救うために8,000万円もの募金が集まったのだ。すばらしいことだと思う。見ず知らずの人のために多くの人が募金を惜しまなかった結果、幼い一つの命が助かるかもしれないのだ。しかし、本当にそう素直に喜べるのだろうか。
発展途上国の子供達を支援するユニセフのサイトを見てみた。サイト内の募金のページにはこんな説明がある。3,000円で失明から子供を守る1年分のビタミンAカプセルを700人分。4,000円で下痢による脱水症から子供の命を守る経口補水塩を623人分。8,000円で肺炎から子供の命を守る抗生物質5日分を299人分。
多くの人から見れば、京大(けいた)君も発展途上国の子供達も見ず知らずの幼い命で、そこに大きな差はないはずだ。つまり、世界の現実を知っていれば、たった一人の人間の命のために8,000万円もの募金が集まるはずがないのである。言葉は悪いかもしれないが「下手なお金の使い方」としか言いようがない。それでも現実にはそれだけの募金が集まっている。これをどう説明しよう。
結局みんな自分の行動が引き起こす結果など大して気にしていないのではないだろうか。「いいことをした」「人の役に立った」と満足感に浸るためには「善意の行動」だったらなんでもいい。目の前に募金箱を差し出されたから、それが数ある「善意の行動」の中で最も選びやすい選択肢だったから。だから深く考えもせずにそこにお金を入れただけなのではないだろうか。
誤解を招かないように言っておく。別に京大(けいた)君に恨みはないし助かればいいと思っている。ただ、たった1人の命が助かるよりも、大勢の人の命が助かったほうがいいと思っているだけだ。特別珍しい考え方ではないはずだ。
福岡県筑前町の三輪中学校に通う2年の男子生徒が、いじめを受けたとの遺書を残して自殺した。生徒がたびたび早退し、自宅でインターネットのサイトを見ていたため、母親が担任教師に相談したところ、教師はその内容を同級生に暴露し、それが発端となって嫌なあだ名をつけられ、いじめが広がったという。本日の朝刊の社説には「こんな教師は例外的な存在と思いたい」とあった。
残念だが、この教師のような人間は特別珍しいわけでもないだろう。経験則から推測すると、恐らく50人に1人ぐらいはこの種類の人間が存在しているような気がする。もちろん僕の周囲にも過去何人か存在していた。人の噂話や悪口を得意げに話し、そして自分の提供した話題で盛り上がっていると思い込んで優越感にひたるような人間がである。本人は気づいていないのだろうが、それは「その人自身が話題にできるような趣味も、特技も、経験も、知識も持っていない空っぽな人間である」ということを暴露して自分で自分を貶めているだけである。
周囲の人は雰囲気を壊さないためにとりあえず相槌を打ってくれるだろうが、みんな心の中では思っている。「やれやれ」って。
GoogleがYouTube買収を正式発表した。今後GoogleがYouTubeで問題視されている著作権についてどのように対応するか注目するところである。
ところでYouTubeにアップされている日本の動画に対して、日本の民放各局は今年の春頃からYouTubeに削除依頼をする動きが活発になった。特に対応が早かったのはフジテレビ、そしてその流れは僕の知る限りTBS、テレビ東京などその他の民放各局へと広がっていった。もちろん削除するのは「著作権の保護」が理由なのだが、はたしてYouTubeに動画がアップされることは著作権保持者の利益を損ねているのだろうか。
ここで現在のYouTubeの機能について整理しておく。YouTubeの利用者は320ピクセル×240ピクセルの最長10分間(ディレクターアカウントなら10分以上も可能)の動画を自由にアップして公開することができる。YouTubeは家庭用のビデオ映像公開用と謳ってはいるが、実際には利用者がお気に入りの映画や番組などを録画して、その映像を公開することが多い。
そのため海外在住の日本人にとってはYouTubeは日本の番組を見るためには欠かせない存在のようだ。また台湾の利用者が漢字の字幕(何語だかわからないが)のついた日本のドラマを多数公開しているのを何度も見ているし、スペインの利用者が英語字幕の日本のドラマやアニメなどを公開しているのも知っている。わざわざ好きでもない動画を手間をかけてアップする人などいないのだから、日本のドラマやアニメが海外の人によって公開されているのは嬉しい限りである。つまり見方を変えれば、現在のYouTubeは「いい動画はいいモノ」として世界中に広める手助けをしているのではないだろうか。さらにYouTubeには320ピクセル×240ピクセルというサイズの制限が設けてある。本当に気に入った動画であればやはりフルサイズで見たいと思うだろう。YouTubeの動画がビデオやDVDの販売促進に一役買っていると考えることもできるのではないだろうか。
もし現在のYouTubeに「明らかに問題」という箇所があるとすれば、それは純粋に音楽だけを楽しむ利用者の扱いではないだろうか。動画にはサイズの制限があるが、音声には制限がない。つまり音楽だけを楽しもうとする利用者は好きなアーティストの音楽を何度でも無料で聴くことができるのである。こればかりはさすがに著作権保持者の利益を損ねているとしか言えないだろう。ではどのようにすればいいか。これは僕が考える一つの案であるが、利用者には必ず本人のアカウントでログインをさせて、同じ利用者が同じ動画を再生できる回数を10回ほどに制限してはどうだろうか。そうすればお気に入りの音楽をYouTube上で見つけて、何度でも繰り返しその曲を聴きたいと思った利用者はCDの購入に踏み切るのではないだろうか。
さて、ここまでYouTubeを擁護する意見ばかりを並べてきたが、別に「著作権保持者の不利益」を完全に否定しているわけではない。しかし、高速回線の普及とGoogleの買収による知名度のアップで、今後利用者はさらに増えることだろう。そうなったら、著作権保持者がYouTubeにアップされている動画を一つ一つチェックして自らの著作権を侵害しているものがないか確認するのは限界があるし、同様にYouTubeの削除対応にもいつか限界が来るだろう。つまりYouTubeによって世界のスタンダードになりつつある動画共有の流れは、例えそれが著作権を侵害していようとも止められないと思うのだ。だからこそ「著作権侵害」を訴える企業はいつまでも動画の削除に固執せずに、YouTubeの長所を利用する方向へ目を向けるべきではないだろうか。9月にいち早くYouTubeと提携したワーナーミュージックの動きは世の中の流れを見据えた英断と言えるだろう。
今月上旬にmixiと2ちゃんねるを舞台として起こった三洋電機事件は非常に興味深い。mixiが始まった当初から「いつかこのようなことが起こるだろう」と予想していたから、友人などで本名を公開している人にはそれとなく注意したりしていたのだが、まさか最初に公となった事件が「Share」「わいせつ画像」「警察署勤務」など、ここまで見事に注目されるべき要素を備えて起きるとは思わなかった。
事の発端となった男性の行動は愚かで「自業自得」と一言で片付けられるが、その恋人であった女性は不運としか言いようがない。今でも2ちゃんねるには、その被害にあった男性と女性の本名や学歴、画像などが溢れている。もちろん今更ネット上に流れてしまった画像をすべて削除しようとしてもそれは不可能な話である。人々の記憶からはすぐに薄れていくだろうが、「わいせつ画像」を晒されてしまった女性は今の仕事は続けられないだろうし、当分の間対人恐怖症に悩まされるに違いない。この男女が今のまま恋人でいられるのかどうかも怪しいものだ。
今回の事件を知って改めて思った。今起きている出来事から近い未来に起こるであろう出来事、自分の行動が近い未来に引き起こすであろう出来事。それらを常に考えて行動すること。それができない人に対して心を許すことは我が身をも滅ぼしかねない、と。
タレントの向井亜紀さん(41)夫妻が米国の女性に代理出産を依頼して生まれた双子の男児(2)の出生届に関するニュースが世間を騒がせている。東京都品川区は双子の出生届を受理するよう命じた東京高裁決定を不服として、最高裁への許可抗告を同高裁に申し立てたが、品川区長の発言は決して代理出産を否定しているものではない。世の中の流れを考えると恐らく最高裁でも同様の判決が下されるだろうし、そうなるべきだと個人的にも思う。
なぜなら、出産の形が異なるだけで、生まれてきた子供は、向井亜紀さんが子宮を失わなかったら生まれてきたと思われる子供と変わらないからである。むしろこの場合に「出産者を母」という定義を適用する方がはるかに無理があると感じる。「出産者を母」という定義を適用すれば、全く似ていない親子が存在してしまうことになるのだから。想像してみるといい、日本人の顔をした子供の実の母親が青い目と白い肌に金髪をなびかせているところを。
さて、そうなると気になるのは母親、父親の定義である。現在の民法では「出産者」を母親とし、出産時に婚姻関係にあった男性を父親としている。(出産時に婚姻関係がなかった場合は認知した男性が父親)。今回の出生届けが受理されるなら、母親の定義は「出産者」から「卵子提供者」とするべきなのだろうし、男性の定義も「精子提供者」とするべきなのだろう。
さらに出生届を受理したなら、日本国内での代理出産の是非についても触れないわけにはいかないだろう。個人的には代理出産も認められるべきだと思う。現在の技術で不妊に悩む夫婦が子供を授かる手段があるのなら、特に少子化が問題とされる今、それを認めない理由はないと思うし、なにより国境を超えることに抵抗がない現代においてアメリカで(正確にはカリフォルニア州で)代理出産が認められているなら、国内で認めないことにそれほど意義があるとは思えないからである。
現在、日本人の代理出産希望者の多くはアメリカでそれを行っていて、その費用は最低でも1,000万円はかかると言う。そのため「国内でも代理出産を認めるべき」と発言するとこんな反論が予想される。「代理出産を認めると不妊で悩む夫婦の中で経済的に裕福な人だけが子供を授かることができてしまって不公平だ」と。しかし、経済的に裕福な人が多くの子供を育て、貧しい人が少ない子供しか育てられないというのは現在も言えることで、代理出産を認めたことによって新たに生じる問題ではないはずだ。
もう一つ予想される反論はこうだ。「代理出産を認めることは犯罪の温床となる」と。そのような意見の人がどのような犯罪を想定しているのかはわからないが、恐らく代理出産を認めたことによって起こるであろう問題はこんなものだろう。借金などに困った女性が高額な報酬を期待して代理母に立候補する。または借金取りが代理出産への立候補を強要する、という問題。しかし、この問題も代理母への報酬を法律である程度規定しておけば特に問題はないだろう。個人的には200万〜300万程度の報酬なら、お金のためだけに代理母に立候補するようなことはないと思う。「犯罪の温床となるから認めない」という考え方ではなく「認めたうえで犯罪の温床とならないように法の整備をする」という考え方が大切だと思うのだ。



