「日の丸・君が代強要違憲」
この21日の東京地裁の判決は、思想の自由を考慮するなら当然の流れだと思う。
それに対する石原都知事の考え方は相変わらず理解できない。ここまではっきり主張してくれると分かり易くていいけど、支持はできない。
「規律を取り戻すための手段」と主張するなら、「国旗・国家」ではなくて「校章・校歌」でも問題ないのではないだろうか。それなら「国旗・国家」よりは受け入れられ易いだろう。恐らく本当の理由は「愛国心を育てたい」ということなのだろう。
ついでに小泉首相の言葉。最後だから大胆になったのだろうか。
外国で変に思われる?この言葉で、日本は他人の目を気にしながら生きている自信のない人間のように思えてきたよ。そんな格好悪い国だったら、僕は永遠に愛国心なんて持てないだろう。
確かに、他の国と比較すると日本人は愛国心の薄く、少し寂しさを感じることもある。だから、愛国心のある人間を育てたいと考える気持ちも理解できる。しかし、君が代を斉唱すれば愛国心ある人間が育つのだろうか。国旗を掲揚すれば愛国心のある人間が育つのだろうか。なんか「メールアドレスや携帯番号を交換したら友達」って考え方と少し似ているような気がする。友情や愛情は形のないもの。「あれをしたから友情」とか「これがあるから愛情」なんてモノは存在しない。友情や愛情は人の内側で育つものだ。内側に手を突っ込んで植えつけようとしたって無理だし、逆に反抗心を煽るだけだ。
愛国心のある人間を育てたければ、愛する価値のある国になるのが最良の手段。もちろん時間はかかるだろうが、それほど難しいことだとは思わない。とりあえずアメリカに尻尾を振っているうちは無理かな。
渋谷公会堂が「渋谷C.C.Lemonホール」になるとか。なんか悲しいな。とはいえ僕にとっては別に思い出の地でもなんでもないのだけど。そもそもこのネーミングライツの文化が日本で始まったのは、2003年の「味の素スタジアム」からで、最初は赤字の公共施設の管理運営費を埋め合わせる手段のひとつとして導入されたはず。渋谷公会堂の管理運営費も厳しかったのだろうか。
人に限らず施設とかのモノにだって「自分はここにいる」みたいな主張を持ち続けて欲しいものだ。お金に換わるものはみんな換えてしまう世の中なんて寂しすぎる。まさか、そのうち売れている芸能人が命名権を売るような世の中にはならなければいいけど。
昨日から今日にかけて「野ブタ。をプロデュース」をまとめて全部観た。テレビで放送されていたときは時間帯が土曜日の夜と言うこともあって見逃していた回が何回かあったけど、今回はそんな見逃していた回も含めてすべてを一気に観ることができた。
改めて感じたこと。このドラマに込められたテーマは、昨今のドラマの中では稀に見るぐらい多く強い。心に残る台詞の数々。「自分に正直でいること」と「人に優しくあること」の間で揺れ動く主人公達。小さなエピソードに含まれた強く深いメッセージなど。主人公達とは10歳以上歳が離れているのに、観るたびに強く心が揺さぶられるのを感じる。どうやらまた一つ人生のバイブルが増えたみたいだ。
最後にいくつかドラマの中から心に残った台詞を書き留めておく。
日本でも1997年に臓器移植法が成立した。15歳以上であればドナーカードを携帯し、臓器提供の意思を表示することに加え、家族の同意があれば、脳死や心臓停止後に臓器を提供することができるのである。脳死判定基準やドナーカード1枚で脳死が「死」か「生」か別れてしまう現在の臓器移植法の在り方についても大きく意見が別れているのだが、今回はその部分には触れないでおく。
今回注目したいのは、現在の日本の臓器移植法では15歳未満の臓器を摘出することはできないとうことだ。小さな子供が移植を必要をした場合、それが腎臓や肝臓であれば、一部分の移植で済む。つまり血液型さえ一致すれば大人からの提供が可能なのである。しかし、それが肺や心臓であれば15歳以上の大人から小さな子供に移植することはサイズの違いによって不可能である。そのため肺や心臓の移植が必要な子供は、子供の臓器提供者のいるアメリカやヨーロッパなどの海外で移植手術を受けるしかないのである。
特にアメリカには脳死者から提供される移植用心臓のうち5%は外国人に提供しなければいけないというルールがあるため、アメリカで移植手術を受けることが多い。その場合、アメリカへの渡航費用などを合わせると手術の費用は1億円以上するので、金持ちの親を持つ子供の方がより有利に移植手術を受けられる。つまり、世の中には他にも移植すれば助かる幼い命がたくさん存在するにも関わらず、結果的に国内で移植手術ができずに資金力のある日本人の子供が優先的に移植手術を受けられるということになる。
では貧しい国ではどんなことが起きているのだろうか。当然、移植すれば助かる子供たちが亡くなっている。それだけではない、そこには臓器売買という現実がある。もちろん臓器売買の責任がすべて日本人にあるなどとは思っていない。その国の貧富の差や臓器売買を認めている法律にも問題があるだろう。ただ、日本人のような大金を払ってでも子供を助けたいと考える親の存在がその一因となっていることは否定できない。子供を助けるためとはいえ、貧しい国の人々の目には日本人がずいぶん自分勝手な生き物に映っているに違いない。
なにも今すぐ臓器売買という現実を失くして、貧しい国の子供達をすべて救おうなどとは考えていない。それにはものすごい時間がかかることだろう。取り急ぎ僕が訴えたいのは、15歳未満の臓器摘出ができない現在の日本の臓器移植法の影響は日本国内にとどまらないということ。そして、できる限り早く15最未満であっても臓器の摘出ができるように臓器移植法を改正して欲しいということである。
消費者金融。僕自身はそのお世話になることは恐らくないだろう。ただ、最近はテレビをつければそのCMを見ない方が難しい。人気のタレントを用いたCMは好感度を上げ、多くの人の目を現実から遠ざけていることだろう。
実は消費者金融業者の多くが利息制限法という法律に違反している。この利息制限法では「元本10万円未満の利息は年利20%、10万円以上100万円未満は年利18%、100万円以上は年利15%までにするように」と定めている。いくつかの大手消費者金融のサイトを見てみれば、年利25%以上の数字などすぐに目につくだろう。にも関わらず例えば消費者金融大手〇イクのサイトなどでは「消費者金融とヤミ金融の違い」という利用者に親切なページを設けて「ヤミ金融は違法業者です」と明記しているから滑稽である。
何故このような法律違反がまかり通っているのだろうか。実は利息制限法には罰則がないのである。とはいえ法律違反には違いないので借り主が利息制限法という法律を知り、利息制限法超過部分は無効ということを消費者金融業者に認めさせれば利息制限法超過部分を払う必要はない。ただ、もう一つ憶えておかなければいけないことがある。貸金業規制法43条では、この利息制限法超過利息であっても、「債務者が任意に利息として支払った場合は有効な利息の弁済とみなす」と定めているのである。消費者金融業者の中にはこの「みなし弁済規定」を利用して、「利息制限法を超過した部分の弁済を有効である」と主張する業者も少なくないのである。立場の弱い借り主に、消費者金融業者の主張と戦って利息制限法超過部分は無効であることを認めさせるよう求めるのは酷な話であろう。このような理由から利息制限法は現在有名無実化しているのである。
その一方で出資法という法律がある。この法律では年利29.2%を超える利息で金貸し業を営む事を禁止している。こちらは違反すると5年以下の懲役又は3,000万円以下の罰金が科せられため、多くの消費者金融はこの出資法に違反しない範囲で営業している。利息制限法で定める上限金利20%とこの出資法で定める上限金利29.2%の中間部分をグレーゾーンと呼び、一般的に「ヤミ金融」と呼ばれているのは、この29.2%を超える利息を請求する金融業者のことを指す。
現在、金融庁ではこのグレーゾーンを廃止する議論が高まっているのだが、利息制限法に一本化すべきという意見と、逆に上限金利を下げたら、消費者金融業者の審査が厳しくなり、お金を借りられなくなる人が増えて、ヤミ金融の被害が増えかねないという意見が真っ向から対立し、結論は出ていない。
僕は思う。上限金利を下げたところで審査が懸念されているほど厳しくなることはないだろう、と。なぜなら、運転免許証一枚で即時審査できる今の高い利便性を、審査を厳しくすることによって失わせることはないだろうと思うし、消費者金融業者が借り主に返済能力がないと判断したら、借り主を脅してヤミ金融からお金を借りてでも返済に充てざるを得なくさせるだろうと思うからだ。消費者金融もそう。ヤミ金融もそう。借り主が返済するために他の金融業者からお金を借りようが全く気にしない。結局、借り主が自己破産するとき、夜逃げするときに自分たちが債権者になっていなければいいという考えなのだろう。
確かに、上限金利を下げることによって、消費者金融の審査が厳しくなる可能性もある。しかし、それによって利用者とヤミ金融との距離が近くなり、早めに危機感を感じるのであれば効果はあると言えるのではないだろうか。イメージが良いからといって、消費者金融の高い利息を大した危機感もなく受け入れているよりはずっといいと思う。あとは利用者の「ご利用は計画的に」という意識に期待するしかない。
彼は頑張っている。もうどれくらい走り続けたのだろうか。1年だろうか。2年だろうか。正確なことはわからない。なぜなら彼が走り始めたとき僕はこの場所にいなかったのだから。ただ、この二週間程の間、彼は一箇所から動いていないのは確かである。それでも1秒ごとに次の一歩を進めようとしているのが遠目からでもわかる。
今、時計の針は3時37分43秒を指している。確か午前だったと記憶しているが、それについてももう自信がない。それぐらい彼がこの場所から動けなくなって時間が経っているということだ。なんにしても彼はこのコース最大の急勾配を超えることができないでいるのだ。一体いつやって来るのだろうか。もう限界かもしれない。恐らく僕が手を貸さない限り永遠にやって来ないのだろう。
3時37分44秒は。
将来の日本には永世中立国のような自立した国家を目指して欲しいと考えている。現在の日本の何が嫌かというと、やはりアメリカの防衛力に頼っていることもあり、アメリカの顔色を伺うような外交をせざるを得ないことが一国民として悲しいのである。正しい行為には「正しい」と、間違った行為には「間違っている」と発言できる国になって欲しいものだ。
永世中立国とは将来もし多国間で戦争が起こっても自国は中立の立場である事を宣言し、他国がその中立を保障・承認している国のことである。人によっては「永世中立国」という言葉から平和な印象を抱くかもしれないが「非武装中立国」とは大きく異なる、永世中立国とは軍事的な同盟国がないことから、他国の軍事攻撃に遭った場合でも自国のみで解決しなければならない。つまり強力な自衛能力を必要とするのである。
一部で非武装中立を唱える人もいるが、この意見には同意できない。「武装しないことが平和への近道だ」と言いたい気持ちも分からなくはないが、それは理想に過ぎないと感じる。国家も人間が動かしているもの。国によっては一人の人間の意志で動かせる国家も存在する。つまり人間関係と同じように見つめることができるのではないだろうか。非武装中立を唱える人にはぜひ尋ねてみたい。武装しないことが平和への近道なら、なぜ無防備な人間が襲われる事件が絶えないのかと。なぜ弱い女性や子供が襲われる事件が絶えないのかと。残念ながら世の中に存在するのは善人ばかりではない、一部ではあるが強盗もいれば、殺人者もいる、そこまで極端ではなくても50人も集まれば弱い者いじめをする者は必ずいる。国と国の関係においても同じことが言えるのではないだろうか。
さて、日本が永世中立国となるためには日米安全保障条約の締結は必要不可欠だろう。というよりも個人的にはそれを一番望んでいる。もちろんそれによって防衛力以外の弊害も出てくる。アメリカの最先端軍事技術を取り入れることができなくなるという点だ。そこは日本の国内の技術に期待するしかない。
さらに、永世中立国となるためには国際連合も脱退すべきなのだろう。ただ、この部分に関しては自分の意見はまだ定まっていない。「自国を守るためではなく世界平和を守るために国際連合に加盟し続けて欲しい」という気持ちもあるが、国家規模でそのような正義感を貫くことに抵抗も感じる。国家規模であれば「自国さえ守れれば他の国はどうなっても良い」という考え方も許されるような気がするのだ。そこは国際連合に加盟していることで生じる分担金や軍事費などが国民に強いる負担にも大きく左右される問題だろう。
先ほども述べたがそのような日本の将来のためには充分な自衛能力が必要である。正直「充分な自衛能力」というのがどの程度のものかは想像するしかない。現在の日本の軍事費は4兆8500億円でアメリカ、イギリス、フランスに次ぐ世界第四位、自衛隊員は24万人と言われている。これが自衛能力として充分と言えるのだろうか。世界第四位の軍事費が充分でないとは考えにくい。ただ、自衛隊員数についてはどうだろうか。参考までに近隣諸国の軍隊と比較してみる。韓国は69万人、中国は正規軍だけで30万人、北朝鮮は110万人と言われている。このことを考慮に入れるとやはり充分とは言い難いだろう。現状の制度で自衛隊員を増やすことが困難であれば、兵役義務を課してもいいように思う。ただ、その場合は同時に良心的兵役拒否権も認めて欲しいと考えている。良心的兵役拒否者には社会福祉活動や環境保護活動を義務づけるのがいいのではないだろうか。
さて、自衛隊について触れたので、最後に憲法第9条についても触れておきたい。改正論議が盛んだが個人的には改正する必要はないと考えている。とりあえず問題の第9条をもう一度見直してみる。
繰り返しになるが、自衛隊の存在は必要だと考えている。だが第9条を普通に読む限り自衛隊の存在は認められていない。それでも改正は必要ないと思う。なぜなら政府が「自衛隊は国際紛争を解決する手段のための戦力ではない」という解釈で自衛隊の存在を認めているからである。その解釈に正直違和感は拭えない。ただ、その解釈によって既に自衛隊の存在が認められている以上、わざわざ憲法を改正する必要はないという考えである。必要迫られたわけでもないのに憲法を改正することは憲法の信頼性を失わせかねないと思うのである。
ちなみにこれは憲法の範囲からは逸脱するのだが、自衛隊の自衛のための先制攻撃は認める方向に変わって欲しいと思う。ここで言う「自衛のための先制攻撃」とは戦闘機を飛ばして敵国のミサイル基地を爆撃する、とかそういうことではなく、領空侵犯や領海侵犯に対しての先制攻撃を認めて欲しいというものである。
これだけの内容を書く際にもいろいろ調べ、自分の無知さを改めて実感した。恐らくまだ考慮されていない事も多々あって、ツッコミ所が満載だろうと予想している。それでも今自分の中にある考えをまとめておきたかった。また知識を積み重ね、考えが変わったら同じようなテーマで書くことにする。
僕の毎日のように利用しているSNSのmixiには「紹介文」という機能がある。読んで字の如しだが、友人を紹介するための文章で、書けばその相手のプロフィールの下に表示されるようになっている。利用者によってはその人の人物像を判断するための手がかりになるのだろう。
先日、友人たちの「紹介文」を改めて見直していた。可能であれば、僕の中の記憶から受けるその人の印象を正確に文章にして「紹介文」を書いてあげたいと思ったのである。
そう思って取りかかったのだが、ある友人の「紹介文」が書けないことに気付いた。会ったのは10回には満たないだろうし、その際言葉を交わすことも少なかった。それでもその後はメールのやりとりを何度も繰り返して、お互いの近況や悩みなど、多くの意見を交換した。それでも書けない。
仕方ないので、別の友人の「紹介文」に取りかかった。この友人と会った回数はもっと少なく恐らく3回、ただ、そのうち2回は2人きりで会って2,3時間ほどいろいろな世間話をした。こちらは、会った回数を考慮すると、意外なほど自分で満足の行くような「紹介文」を書くことができた。
この違いは一体どこから来るのだろう。結局、相手の人物像を理解するためには、メールのやり取りなどいくら繰り返したところで、一度直接会ってじっくり会話することには遠く及ばないということではないだろうか。文字には乗らないもの。つまり直接会って会話して初めて伝わるもの。もちろんそこには容姿も含まれるが、会話に応じて常に変化するその人の表情、その人の視線、その人の姿勢、その人の声など。それらは僕等が思っている以上にその人の人物像を詳細に表現しているのではないだろうか。
「僕等医者に分かる範囲の病気ではないです。力になれなくて申し訳ない。」
その医師はそう言って深く頭を下げてくれた。35歳位の男性で、細い目をした優しそうな顔だったけど、その顔が見えなくなるくらい深く頭を下げてくれた。つい泣きそうになった。「まだ、こんな医者も日本にいるんだな〜」って感激したのだと思う。
僕はずいぶん前からこの結果を予想していたよ。にも関わらず、「ストレス」を原因として効きもしない薬を処方する医者にこの1年半の間、何度出会ったことか。悩みのない人間なんて世の中にいないのだから「ストレス」と言っておけば反論のしようがない。そんな心が透けて見えるような気がしていた。だからこそ今日は嬉しかった。
さて、「人間にもまだまだ未知な部分がある」ということを身を持って体験できたわけだが、これで気持ちは一区切りつけなければならない。これからは「呪いをかけられた」と思って生きていくとしよう。いや、「呪い」よりも「魔法」の方が響きがいいかな。この魔法がいつか自分の魅力に変わればいいのだが。
そんな考えに至ってから、先日久しぶりに見た「ハウルの動く城」のシーンが頭に浮かんできた。そういえばソフィーも呪いをかけられたからこそ、ハウルと心を通わせることができたんだっけ。
人の行動の大部分は「損得」で選択されて決まっている。「損得」というとあまり良いイメージを抱かない人もいるだろう。なにも金銭的な「損得」に限ったことを言っているわけではない。例えば損得の「得」の例を挙げてみる。金銭的なプラス、良い刺激、良い立場、快感、安心感、満足感、達成感、好奇心、自尊心、技術、情報、人脈などである。同じように「損」の例を挙げてみる。金銭的なマイナス、時間の喪失、悪い立場、苦痛、不快感、罪悪感、不安感、嫌悪感、人間関係の悪化などである。勿論これがすべてではない、今挙げた以外にも人生には様々な「損得」が付きまとっている。そして多くの場合、総合的に「得」する行動、または「損」を避ける行動を人は選択しているのである。
もちろん常に頭の意識の中でこんなことを考えている人は少ないだろう。多くの場合それは無意識下で判断されて行動を選択している。
例を挙げてみよう。久しぶりに友人と再会して友人宅近くのカフェでコーヒーを飲みながら話をすることにした。この場合予想される「得」は、友人と話すことによって得られるいい刺激、悩みを相談されて頼られているという満足感、話題から得られる情報、好奇心、友人との人脈の確保などである。同様に予想される「損」は友人宅近くまでの交通費、費やされる数時間ほどの時間の喪失などである。勿論実際に行動した結果が異なることもよくある。例えばカフェがすべて喫煙席だったら煙草の煙に嫌悪感を抱くかもしれないし、会話の中の不用意な言葉から友人を傷つけてしまったら罪悪感を抱くかもしれない。そうやって結果的に「損」の方が大きくなる場合もあるが、人は「得」の方が大きいと予想される行動を選択しているのである。
この考え方に例外があるのかどうかは正直自信がない。個人的には例外があることを望んではいるが、人の行動のすべてがこの考え方で説明が付きそうな気もしている。少なくとも9割以上はこの考え方で説明がつくだろう。
さて、結論へとつなげる。もし自分の行動に迷いが生じたとき、普段無意識下で判断しているこの「損得」を、しっかりと意識して考えてみたらどうだろうか。意外とあっさりその時取るべき行動が見えてくるかもしれない。
人の幸せ不幸せは、その人の人生の中で何が起こったかよりも、人生の中で起こったことをその人がどう受け止めるかによるところが大きいと考えている。そういう意味では「プラス思考」とは、最も少ない投資で幸せを得られる手段と言えるのではないだろうか。そんな考えが、僕のプラス思考な性格を支える基盤の一つとなっている。
プラス思考はプラス思考を呼ぶのだろうか。最近、プラス思考の人の考え方を聞く機会が多いように思う。そんな中で少し気になること。プラス思考を偉いと思っているのかマイナス思考の持ち主の意見を批判し、自分の考えを誇らしげに語る人がときどき目に付くという点。そして、プラス思考は強ければ強いほどいいと思っている人が少なからず存在する点である。
言ってみればプラス思考も諸刃の剣。強すぎるプラス思考は時に善悪の判断さえも誤らせ、人の意見に耳を傾ける謙虚な姿勢さえも奪いかねないのである。これを機会にもう一度自分の言動も見直してみるとしよう。



