2006年08月29日

メンヘラー

「メンヘラー」、実はつい最近までこの言葉の意味を知らなかった。とはいえいまだに正確な意味は把握していない。VIPPER(※1)と同じように2ちゃんねるの「メンタルヘルス板」の利用者のことを指すという意見もあるし、医師から鬱や神経症など精神疾患の診断を受けた人のことを指すという意見もある。僕がネット上を調べて得た感じでは後者の意味で使われることが多いようだ。そして、そんな中で、気になるのは「メンヘラー」が非常に差別的な言葉として使用されることが多い点である。

例えば、あるサイトでは「メンヘラーっぽい行為」として次のようなことが記述されている。「俗に言う、オーバードーズ(※2)、リストカットや自殺未遂など」と。そしてまたあるサイトではこんな発言もされている。「メンヘラーはオカシイの多いんで知り合い以上友人未満のラインですらおいておきたくない。」と。

現在僕は原因不明の病のために療養生活を送っている。いくつかの病院を回り、そのうちの一つからは「神経症」という診断を受けている。毎回1分ほど話を聞くだけで、全く効かない薬の処方しかしない医師なので、正直あまり信頼はしていないのだが、その医師の診断があるために傷病手当が受けられ、しばらくの間、収入面の心配をせずにこうして療養生活を送れるのだから、事実として受け入れなければならないだろう。

つまり現在の僕も「メンヘラー」ということだ。これで周囲の目が変わるならその変わっていく様子までじっくり観察してみたいところだ。

※1 VIPPER
2ちゃんねるの「VIP」という掲示板の利用者のこと
※2 オーバードーズ
薬物過剰摂取のことでODと略される
投稿者 masato : 17:42 | コメント (6)

2006年08月28日

この家も認められた

母が家中を警戒している。何を警戒しているかというとヤモリの出現である。ここ2週間ほどの間ですでに5,6匹、母はヤモリを発見しては家の外に放り出しているという。僕はそんな母に向かってこう言う。「ヤモリは家を守ってくれるんだから共存しなきゃ駄目だよ」と。しかし、母にはその考えは受け入れられないらしい。昨日はインターネットでヤモリの撃退方法を調べようとしたらしいが、「育て方しか載ってない」と嘆いていた。今日はついに保健所に駆除方法を電話で問い合わせたそうだ。ちなみにその回答は「ヤモリは害虫じゃなく益虫です。駆除方法はありません。」だったとか。

この家も増築などを繰り返してはいるが築35年程。「やっとヤモリに守られる家になったか」と僕は考えるのだが、もちろん母にはその考えが受け入れられない。

投稿者 masato : 13:54 | コメント (0)

2006年08月27日

愛は地球を救う?

「24時間テレビ 愛は地球を救う」という番組を日本テレビで放送している。この番組でも「地球を救う」と謳っているし、「地球を守る」など似たような言葉はそこら中で聞かれるような気がする。しかし、そもそもこのような場合における「地球」の定義ってどんなものなのだろう。そう思って参考までにgoo辞書で「地球」の意味を調べてみた。主に次の3つの説明が載っていた。

(1)人類の住む天体。
(2)太陽系に属する惑星の一で、一個の衛星(月)を持つ。
(3)表面に多量の水と、窒素と酸素を主成分とする大気を持ち、種々の生命体が存在する。

(1)と(3)の説明は少し納得しかねる。なぜなら46億年前に誕生したばかりの地球に対しても僕等は「地球」と呼んでいて別の呼び方は存在していない。誕生したばかりの頃は、人類も種々の生命体も存在していなかったと言われているにも関わらずだ。つまり(1)と(3)の説明には「現在は」という補足説明を入れる必要があるのだろう。結局(2)の「太陽系に属する惑星の一で、一個の衛星(月)を持つ。」だけが過去にも現在にも通じる説明であるように思った。

しかし地球を「太陽系に属する惑星の一で、一個の衛星(月)を持つ。」という意味として捉えるなら「地球を救う」必要なんてないように感じた。なぜならどんなに人類が頑張って地球を壊そうとしても地球は壊れないだろうし、近々巨大惑星が衝突するなどして地球が粉々になったり太陽系外に弾き出されるような情報も今のところないからだ。

結局、僕自身の考えで「地球を救う」の「地球」の意味を結論付けると、「現在地球上に存在するすべての生物が生態系を壊すことなく子孫を残せる状態」というところに落ち着いた。

そういう考えを持って「24時間テレビ」の過去のテーマを調べてみた。

「アフリカ飢餓救援」
「雲仙・普賢岳災害救援!寝たきりのお年寄りにお風呂カーを!」
「障害者に社会参加を!アジア・アフリカに海外援助を!」
「SAVE THE CHILDREN」
「お年寄りに在宅福祉を、障害者に社会参加を!」
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なんか先ほどの「地球」の意味の捉え方に自信がなくなってきた。別に「24時間テレビ」の活動が悪いとは思わないが、少なくとも救おうとしているのは「人」で、「地球」ではないように感じた。

環境問題や絶滅しかけた動物を救うことなどをテーマに掲げることは今後もないのだろうか。

投稿者 masato : 14:59 | コメント (0)

2006年08月26日

自分の書いた文章から

実家で療養生活を送っているせいか、最近、友人とのメールのやりとり、ブログ、読書感想など意思を文字にすることに割く時間が増えたように思う。そんな折、ふと自分の書いた文章が気になった。

「恐らく〇〇だと思う。」

普段なら気にも留めなかっただろうが、このときはなぜか気になった。繰り返し読んでから思った。「自分の言葉の責任から逃げている」と。もちろん意思を文章にする際には、断定を避けなければならないことも多々ある。この場合「恐らく」も「だと思う」も推定を表す言葉である。その推定を表す言葉を二つ同時に使う必要があるのだろうか。それとも二つ同時に使うことによって推定であることを強調する文章になるのだろうか。

「恐らく〇〇である。」

これで表現としては十分のような気がした。そして、結局僕も日本の曖昧表現の文化にしっかり染まってしまったのだと思った。日本のテレビの中で発言する評論家のように、常に言い逃れの道を用意している政治家のように、僕も無意識のうちに必要以上に長く、責任のない言葉を並べてもっともらしいことを言っている人間の一人になっていた。

投稿者 masato : 15:43 | コメント (0)

2006年08月23日

僕の左足

胡坐(あぐら)をかくたびに少しの違和感を覚える。そしてそのたびに毎回思い出す。気が付けばもう3年半も前の話である。

あれは1月の中旬。気温は凍えるほど寒く心は熱かったサッカーの試合中の出来事。相手選手との接触で左足の「ボキッ」という悲鳴とともに地面に倒れこんだ。音ですぐに「折れた」ことは分かったので、片足でグランドの外へ出て自分で救急車を呼んで病院に運ばれ、改めて「骨折」という診断を受けた。程なく実家近くの病院に移り、一週間ほど入院して手術をすることとなった。骨折自体はそれで3回目の経験だったがメスを入れるほどの手術が必要だったのはそのときが初めてだった。

そして手術の日が訪れる。ストレッチャーに乗せられて手術台まで運ばれ、まずは下半身麻酔から始まる。痛くないために麻酔をするのだが、その麻酔自体が結構痛かった。

5分ほどしてようやく下半身の感覚が少し薄れてきたような感じを覚えた。僕より明らかに若い担当医師は僕の足の先を軽くつねって聞いてきた。

「どうです?痛いですか?」

普通につねられている感覚があったので僕は答えた。

「はい、痛いです。」

また5分ほど待って同じように担当医師は僕の足の先をつねって聞いてきた。

「どうです?痛いですか?」

先ほどと変わらずにつねられている感覚があったので僕はまた同様に答えた。

「はい、痛いです。」

しばらく担当医師は沈黙していたが、やがて僕に優しそうな微笑みを向けながら言った。

「それでは今から手術を始めますね」

(つねる意味ねーじゃん!)

心の中ではそう思いながらも、もはや「まな板の鯉」状態。逆らうことも反論することもできない。流れに身を任せるだけである。ふと小学校1年生のときに足を縫ったとき(これもサッカーが原因)のことを思い出す。「そういえばあのときもやたら痛かったっけ・・ひょっとして自分は麻酔の効きにくい体質なのでは・・・」

そして手術が始る。案の定、メスが足に入る感覚、皮膚を切り裂く感覚がリアルに痛みとして伝わってくる。10分ほどして耐え切れなくなって近くに待機していた女性の看護師に訴えた。

「すいません、普通に痛いんですけど・・」

その看護師は聞き返す。

「我慢できない痛さですか?」

(その質問で返すのは反則だろう!)

そう思いながらも男としてそう聞かれたらどうしようもない。

「わかりました。我慢します。」

そんなわけでしばらく痛みと戦い続けていたのだが、手術後半は点滴からの麻酔が効いてきたせいか幸せなことに眠りに落ちることができた。とはいえ手術自体には痛い思い出しかない。

そんな痛い思い出しかなかったせいで、手術時に骨を補強する目的で入れられた金属プレートをはずす手術はいまだに行っていない。今も僕の左足には長さ10センチほどのプレートがおさまっていて、足首を触ればその存在は明らかである。そして、左足の足首を下に向けて座ると丁度その部分が床に当たって少しの違和感を覚えるのである。

そう、僕の左足には思い出が奇妙な形でおさまっているのである。そしてこれからも胡坐(あぐら)をかくたびに思い出すことだろう。

※ちなみに今回のタイトルは昔好きだったブルーハーツの曲「僕の右手」に引っ掛けている。

投稿者 masato : 11:43 | コメント (4)

2006年08月18日

コメント交換の意義

昨今、mixiなどのSNSの普及によって普段会っていない人との間でもコメントを交換する機会が増えたように思う。自分の書いた日記やブログに対して友人達がコメントを残し、それを見て満足する。そんな一見楽しげに見えるインターネットの文化の中にも注意しなければいけない点があるように思える。それは、多くの場合、日記やブログには、書いた人の意見や行動に対する否定的な意見よりも肯定的なコメントが寄せられることの方が多いという点である。

もちろん自分の意見や行動を肯定されて自信を深めることで人間的に成長することも事実だろう。しかし、時には反論されたり否定されたりして自分の考えを再形成し、それを繰り返すことによって自分の考えを固めていくこともまた人間的に成長するためには必要なことなのではないだろうか。

そう考えるからこそ僕は「この人は他人の意見に素直に耳を傾けることのできる人だろうか」と慎重に相手を選びながら、時には勇気を持って、相手の意見や行動の欠点などをコメントとして指摘するよう心がけている。それと同時に、自分の行動や意見に対して反論してくれる人を大切にしなければ、とも思うのである。

ちなみに世の中には、自己主張ばかりを繰り返す人、正しいことを言いながらも相手の気分を害する言い方しか出来ない人が多々存在することも事実である。現実世界に限らずインターネット上においてもそういう人間との付き合い方は難しいところである。

投稿者 masato : 23:39 | コメント (2)

2006年08月12日

ペットブームの陰に

「犬は113秒に1匹、猫は115秒に1匹が殺処分になっている!(※1)」今日、そんな記事を読んだ。記事の最後では丁寧にもガス室に送られる犬達、ガスによって苦しみ痙攣しながら死んでいく犬達、そして最期に床が開いて焼却炉に転落する犬達の3つの映像が見れるようになっていた。同じ人間達が招いた現実。目を逸らしてはいけない現実だと思った。

※1 記事を読みたい方はこちら

投稿者 masato : 22:38 | コメント (2)

2006年08月10日

冷静な姿勢の行き着く先

インターネットの回線速度の発達やYouTubeなどの映像媒体の普及によってネット上で見れる映像は非常に多くなり、その種類も多様になってきた。中には日本のテレビの画面を通しては決して見ることのできない映像もある。視聴率稼ぎなどのヤラセがはびこるメディアへの不信感が溢れる中、世界で起こっている現実から目を逸らさずしっかり受け止めたい人にとってはインターネットを通じた映像は非常に有効な手段である。

最近見た映像の中で印象に残っているのは、中絶されて手足がボロボロにつぶれた胎児の映像。そしてこれは有名な映像らしいが、チェチェンゲリラに捕まったロシア兵が首を切り落とされる映像。「ショッキングな映像です」という警告や、「見なければ良かった」という閲覧者の感想があるにも関わらず自分でも驚くほど冷静にその映像と向き合える自分がいる。

そういう映像を繰り返し見ていて思うのだ。どんなときでも感情的にならずに物事を出来る限り客観的に出来る限り冷静に捉えようと務める僕の今の姿勢を貫くことは、感情を少しずつ失っていくことと紙一重なのではないかと。

投稿者 masato : 11:03 | コメント (2)