2006年06月18日

進んで命を絶つ行為

物事を深く考えたすえにたどり着く先は死生観と決まっている。なぜなら、生きている限り決して知ることのできないのが死後の世界で、誰も避けて通ることの出来ないのが「死」という瞬間だからである。言ってみれば「死」は生き物にとっての永遠の謎なのである。

今回考えが至ったのもそんな死生観の一つと言っていいだろう。「進んで命を絶つ行為」についてである。この場合の「進んで命を絶つ行為」とはなにも自殺に限ったことだけでなく安楽死や尊厳死も含むと考えていいだろう。

進んで命を絶つ行為はいつだってタブーとされることが多く、関連した事件が起こるたびに賛否両論多くの議論が繰り返されてきた。なぜタブーとされるのか。それは「進んで命を絶つ行為」は、言い換えれば「今いるこの世界からいなくなる行為」だからである。現世に残される人間から見ればタブーとすることは、別れの悲しみから避けるための当然の行為なのかもしれない。

しかし、世の中に存在する多くの死生観では死後の世界があるとも考えられているのだ。そしてここに小さな矛盾が発生する。もし死後の世界と言うものが実際に存在するのだとしたら、現世から見るとタブーとされる「進んで命を絶つ行為」は、死後の世界から見れば、進んで死後の世界へ飛び込んでくる勇気ある賞賛すべき行為とみなされないだろうか。現世にいつまでも執着する人間よりもずっと潔い行為だとみなされないだろうか。

結局人間は「死」という不安に対して心の安らぎを求めるばかりに「進んで命を絶つ行為」を否定も肯定もしているのだ。だから僕は思うのだ。世の中に生きる全ての人から悩みをすべて消し去ったとしても「進んで命を絶つ行為」はなくならないだろう、と。

投稿者 masato : 2006年06月18日 00:00
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