2006年06月30日

サッカー日本代表の「戦う気持ち」

サッカーワールドカップで早々に敗退が決まった今になって、「日本代表を強くするには」というテーマで多くの議論が交わされている。それらの意見に目を通してみると、Jリーグでの外国人枠の拡大や縮小、優秀な代表監督の選別、選手の海外移籍の推奨だったりと、賛成できる部分も出来ない部分もある。しかし、どんな方法を取ったとしても日本の選手達の技術は遠くない未来、といっても10年、20年はかかるだろうが、世界のトップに迫ることだろう。

しかし今回のワールドカップの日本代表の試合と他国の代表チームの試合を見比べて、多くの日本国民が失望したのは、日本選手の技術レベルの低さよりもむしろ「戦う気持ち」の乏しさだったのではなかっただろうか。隣の国の韓国も残念ながら同じようにグループリーグで敗退してしまったが、ゴールに迫る「戦う気持ち」は日本のそれとは比べ物にならないほど強く表に出ていた。それは多くの人が認めるところだろう。この違いは一体どこから来るのだろう。今回はこんなテーマで書いてみたいと思う。

日本人は「戦う気持ち」の少ない国民なのだろうか。そんなことはない、国内のJリーグの試合でさえ、ときに選手達は恐ろしいまでの「戦う気持ち」を見せる。J2への降格争いなどはその典型で、選手達は得点が入れば異常なまでに喜びを爆発させるし、試合が終われば力尽きてグランドに倒れこむ。では、日本代表の試合とJリーグの試合にはどんな違いがあるのだろうか。それは「所属意識」の違いである。選手達はチームへの「所属意識」があるからこそ「自分のチームを勝たせよう」と一生懸命になり、それが「戦う気持ち」となって現れるのである。

Jリーグのチームでは、選手達は毎日のように同じメンバーで顔を合わせ、練習し、試合に挑む。それに対して代表チームでは、毎回1週間程度みんなで一緒に合宿を行ってから試合に挑む。チームで過ごす時間の長さにはあまりにも違いがある。そして選手達から見れば代表チームは試合で結果を出せなかったり怪我をしたりすればすぐにメンバーからはずされるような冷酷なチームである。「所属意識」に違いが出るのはむしろ当然である。もし代表チームに強い「所属意識」を持てる選手がいるとしたら、それは常に代表チームに招集されて、長い間代表チームでプレーするような本当に優れた選手だけである。

さて、それでは代表チームに強い「戦う気持ち」を求めることは不可能なのだろうか。そうとは限らない、なぜなら代表チームの「戦う気持ち」は代表チームへの「所属意識」からではなく国への「所属意識」から来るからである。

そして、この国への「所属意識」こそ、日本と他国の決定的な違いなのである。なぜなら日本人は国への「所属意識」が非常に薄い。もちろん、昔から国への「所属意識」が薄かったわけではない。太平洋戦争の時代までさかのぼればそれは「大和魂」として大国を脅かしていたのだ。しかし、敗戦国となり、アメリカの指導の下に民主化が進むにつれてそれは次第に失われていったのである。

現代の日本には、韓国のように徴兵制で国への「所属意識」が強まるような制度なければ、独立を勝ち取った経験もない。日本国民の国への「所属意識」が薄れているのは仕方がないことでなのである。もちろん育ってきた環境によって国への「所属意識」の強さは若干異なる。強い「所属意識」の日本代表を見たければ、そんな性格の選手ばかりを代表に召集すればいいのかもしれない。しかし、それでも平均的に見たらやはり国への「所属意識」の薄さは否めないだろう。

各国の代表チームのサッカーにはその国の文化が反映されるという。国への「所属意識」が薄いのが日本の文化であるのなら、それが「戦う気持ち」の乏しさとして反映されているのもまたサッカーの面白さであり、今回のワールドカップはそれが如実に現れた結果と言えるだろう。

僕は思う。強く「戦う気持ち」を表に出して戦う日本代表のサッカーは見てみたいが、今の日本の文化は嫌いじゃない。徴兵制なんてない方がいいし、卒業式に「君が代」を歌うことだって強制されたくない。独立するための戦争なんて絶対いらないし、そもそもそんなものは今の日本には必要ない。この国は平和でいいじゃないか、と。

いつか技術の高さだけで世界とわたりあえる日が来るかもしれない。そんな日をのんびり待つとしようじゃないか。

投稿者 masato : 09:27 | コメント (0)

2006年06月28日

オンラインのコメント力

世間では数年前から「コメント力」という言葉が頻繁に取り上げられているが、それはあくまでも現実世界における言葉のやり取りをメインに扱ったものであった。

しかし最近思うのだ。メール、掲示板、ブログ、ソーシャルネットワークなど、インターネットを介した文字だけのコミュニケーションが増える中、オンラインのコメント力の重要性こそ再認識しなければならないのだと。なぜなら、現実の世界では発する言葉だけではなく姿勢や仕種、声などにもその人の性格や意図が反映されるのに対して、インターネット上では残されたコメントの文字以外に判断要素がない。つまり、それを見た人は残された文字だけを頼りに相手の性格や意図を推し量るしかないのである。

お互い会ったこともない者同士がやり取りする場合においてこそ、この傾向は顕著になるし、実際そのような状況はこれからの社会の中ではビジネス、プライベートを問わず、ますます増えていくことだろう。

だからこそ僕等は送信ボタンをクリックする前にもっと注意しなければならない。このコメントを読むのは一人なのか多数なのか。現実世界での知り合いなのか、オンラインでのみの知り合いなのか、それともオンラインですら初めて言葉を交わす人なのか。それを踏まえた上で、しっかりと相手のコメントに対して論点をずらすことなく的を得たコメントになっているか。誤解や不快感を与えることなく意見を正確に相手に伝える文章になっているか。敬語は的確に使われているか。不必要な改行や記号は入ってないか。

別に顔文字などを用いてインターネット上に残すコメントに個性や感情を表すことを否定しているわけではない。それは状況によっては必要なことである。ただ、最近のインターネット上でのやり取りを見ていると、その場所に残された文字だけが自分の人物像を相手に知らせる唯一の手がかりになるのだという意識があまりにも薄いように感じてならないのだ。

「オンラインのコメント力」。インターネットに関わるすべての人に改めて考えて欲しいテーマである。

投稿者 masato : 00:00 | コメント (0)

2006年06月25日

言葉の力

言葉には力があると信じている。声を発することができる人は例外なく言葉に力を乗せることができるのだと。そして、言葉に乗った力は、周囲の人の耳に入ることによって、真実味だったり説得力だったり感動を与える力に変わるのである。

しかし、一人の人間が言葉に乗せられる力の量には上限があるのだろう、だからこそ口数の多い人の言葉ほど力は小さくなり、口数の少ない人の言葉ほど力は大きくなる。普段から口数の多い人よりも、口数の少ない人に褒められたほうが嬉しいし、口数の少ない人が語ったことの方がより説得力や真実味を帯びるのはそのためである。

そう信じているからだろうか、僕は多くを語らないし、沈黙も大して苦にならない。気がつけばいつからかそんな人間になっていた。

投稿者 masato : 20:55 | コメント (2)

2006年06月24日

芸能界の仕事

働きすぎて体調を崩した三十路間近の今になって、ようやく人生の中で仕事とはどうあるべきなのかを改めて深く考えるようになった。仕事とは生きるためのお金を稼ぐために仕方なくこなすべきことなのか、それとも「仕事が楽しくてたまらない」なんて言えるような仕事にこの先めぐり合うことがあるのか。そう思いながら世の中で生きている人たちが関わる多種多様な仕事を改めて見つめなおしてみる。そんな折、いつも目に止まるのが芸能界という未知の世界の仕事である。

芸能界の仕事ってどんなものなのだろう。もちろん僕等がテレビで目にしているのはトップに位置する氷山の一角の人々で、突出したルックスやなにかしらの才能に恵まれないとやっていけない世界なのだろうし、上下関係や想像も及ばない厳しさも存在するのだろう。それでもそこで仕事をする人たちの意見を聞くと非常に興味を掻き立てられる。例えばタレントの井川遥はモデルの仕事の楽しさが忘れられずにOLをやめて芸能界入りしたというし、女優の宮崎あおいは「今は仕事が楽しくてたまらない」とトーク番組でコメントしている。どうだろう、やはりそこにはプライベートな時間を削って仕事だけに没頭したとしても人生に満足できるような魅力が存在するように思えてならないのだ。

話は少し飛ぶ。現在では多少人気に陰りが見えるが、そんな芸能界の入り口的存在であるモーニング娘。そのモーニング娘から今年の夏にまた二名が卒業する。5期メンバーの小川真琴と紺野あさ美である。小川は語学留学、紺野は大学受験がその理由だそうだ。つまり独立して一人で芸能界を渡っていくというのではなく芸能人から一般の人間に戻るということだ。

多くの応募者の中からその地位を勝ち取って芸能界入りしたにもかかわらず、その地位を捨てる理由は一体どんなものなのだろう。結局芸能界の仕事もその程度のものということか、それとも芸能界に入ると一般の生き方が恋しくなるのか、それともあまり深く考えてなかっただけなのか。

いくら考えても一般人の僕にはわからない。

投稿者 masato : 22:34 | コメント (6)

2006年06月22日

脱出ゲーム

僕は普段ゲームなどやる人間ではない。ゲームなどやるくらいなら眠ったほうが後々時間を有効に使えると言う考えの持ち主である。ところが、そんな僕でも今回はふとしたきっかけからFLASHで作られた脱出ゲームというネット上のアドベンチャーゲームにハマってしまった。

中でもオススメなのがこちらのサイトの5つのゲーム。どれも難易度といい、3Dソフトで制作されたグラフィックといい非常に質が高い。無償で楽しみを提供している製作者の方々に敬意を表してここで紹介する。少し時間の空いてしまった折にぜひチャレンジしていただきたい。

投稿者 masato : 22:50 | コメント (0)

2006年06月19日

取り戻したい過去はありませんか?

今GyaOでオンエアされているドラマ「歌で逢いましょう」(オンエアは6/24まで)にハマっている。あるバーのカラオケボックスで懐かしい曲を歌うと、昔その曲を歌った時代に戻れて人生をその時間からやり直せるという、意外と使い古されたストーリーだが、脚本や俳優陣が非常にしっかりしていて涙を誘うドラマに仕上がっている。

こんなストーリーを見ると決まって自分に問いかけるのは、このドラマのメインコピーにもなっているこんな言葉である。「あなたに、取り戻したい過去はありませんか?」。でも僕の答えはいつも決まっている。取り戻したい過去などない。もちろん「あの瞬間が人生の分岐点だったな」とか、「あの瞬間別の生き方を選択をしていたら今はどうなっていただろう?」とか、そう思うことはある。しかし、結局やり直したとしても同じ選択をきっと僕はするのだ。なぜならそうやっていつも考え抜いたうえで人生の選択をしてきたのだから。

投稿者 masato : 00:00 | コメント (0)

2006年06月18日

進んで命を絶つ行為

物事を深く考えたすえにたどり着く先は死生観と決まっている。なぜなら、生きている限り決して知ることのできないのが死後の世界で、誰も避けて通ることの出来ないのが「死」という瞬間だからである。言ってみれば「死」は生き物にとっての永遠の謎なのである。

今回考えが至ったのもそんな死生観の一つと言っていいだろう。「進んで命を絶つ行為」についてである。この場合の「進んで命を絶つ行為」とはなにも自殺に限ったことだけでなく安楽死や尊厳死も含むと考えていいだろう。

進んで命を絶つ行為はいつだってタブーとされることが多く、関連した事件が起こるたびに賛否両論多くの議論が繰り返されてきた。なぜタブーとされるのか。それは「進んで命を絶つ行為」は、言い換えれば「今いるこの世界からいなくなる行為」だからである。現世に残される人間から見ればタブーとすることは、別れの悲しみから避けるための当然の行為なのかもしれない。

しかし、世の中に存在する多くの死生観では死後の世界があるとも考えられているのだ。そしてここに小さな矛盾が発生する。もし死後の世界と言うものが実際に存在するのだとしたら、現世から見るとタブーとされる「進んで命を絶つ行為」は、死後の世界から見れば、進んで死後の世界へ飛び込んでくる勇気ある賞賛すべき行為とみなされないだろうか。現世にいつまでも執着する人間よりもずっと潔い行為だとみなされないだろうか。

結局人間は「死」という不安に対して心の安らぎを求めるばかりに「進んで命を絶つ行為」を否定も肯定もしているのだ。だから僕は思うのだ。世の中に生きる全ての人から悩みをすべて消し去ったとしても「進んで命を絶つ行為」はなくならないだろう、と。

投稿者 masato : 00:00 | コメント (0)

2006年06月17日

ショートフィルム

ショートフィルムと呼ばれる20分から1時間程度におさめられたドラマがある。有名なショートフィルムといえばフジテレビ系の「世にも奇妙な物語」だろうか。そんなショートフィルムの作品の大部分はその場で見て楽しんで、時間が経つとともに記憶から薄れていくものばかりである。しかし、ごく稀に心の奥に刻み込まれて何年も頭から離れないような傑作が生まれることがある。

僕がおすすめするそんなショートフィルムの傑作といえば2年ほど前にTBS系列BS-iで放送されていた「恋する日曜日」という番組の中の1作品「終章」というストーリーである。切ないラブストーリーで、僕の記憶に深く刻み込まれているのだろう。今になってまた強く頭の中に蘇って来たので、みんなに教えたくなった。機会があったらぜひ見ていただきたい。

投稿者 masato : 00:34 | コメント (0)

2006年06月13日

サッカーワールドカップに望むもの

昨夜日本がオーストラリアに逆転負けを喫した。多くの日本人は今日はその余韻を引きずって仕事も手に付かないのだろうか。おそらく多くの人が意見している今回のサッカーワールドカップについて、ここで僕も一言。

ワールドカップとは言わずと知れた、サッカー最強の国を決める四年に一度の貴重な大会。ところがサッカーというスポーツである以上。何が起きるか分からない。時には弱いチームが勝つという波乱もある。しかし純粋にサッカー最強の国を決めるという大会を楽しむ人間にとっては、そんな波乱は少なければ少ないに越したことはない。強いチームが勝つ。それが大会の理想なのである。

ワールドカップでもそんな波乱が出来る限り少なくなるように強豪国にはシード権を与えたうえで、決勝トーナメントの前にはグループ別のリーグ戦を行っている。しかし、それでもヨーロッパ最強のクラブチームを決めるUEFAチャンピオンズリーグのようなホームアンドアウェー制を取る事は日程的にも出場国の地域の散らばり具合からも不可能で、決勝トーナメントではすべて一発勝負である。そんなわけで現状のルールではまだまだ波乱の余地は少ないとはいえない。

ここで前回の日韓ワールドカップを思い起こしてみよう。あれはまさに波乱のワールドカップであった。強豪国と言われたフランスやアルゼンチンやポルトガルが早々と姿を消し、日本とレベル的には大差ないと思われる韓国が誤審などの要因と地元の声援の後押しもあって準決勝まで勝ち残った。僕にとっては過去あれほど退屈なワールドカップはなかった。

さて、今回の日本の戦い方はどうだろう。もちろん僕自身国籍は日本にあるので日本の応援をしてはいるが、優勝など全く望んではいない。せいぜい決勝トーナメント進出程度で終わるのが一番喜ばしいことである。日本がブラジルやアルゼンチンなどと肩を並べるくらいの実力になったと思えたとき初めて日本の優勝を心から望むことだろう。

そういう意味では昨夜の日本対オーストラリア戦。やや審判の誤審とも思えるゴールで先制点を取った日本が、ほとんどまともにシュートすら打てない圧倒的劣勢のなか守りきって勝利するなどという波乱が起こらなくて、少しほっとしているのだ。

今回のワールドカップはここまで順調に来ている、このまま最期まで波乱のない展開を望んでいるし、最期には本当に強いチーム同士のぶつかり合いを楽しみたいものだ。

投稿者 masato : 14:57 | コメント (2)

2006年06月12日

青のレクイエム

ふと目にした元ちとせの「青のレクイエム」のプロモーションビデオ。6月10日から公開されている映画「初恋」のテーマソングでもあるため、宮崎あおいが主役を演じる映画の切ないシーンをバックに例えようのない歌声が心に染みわたる。歌唱力にしろ、演技力にしろ、才能に恵まれた人たちはこうして自らの夢を叶えるのと引き換えに、一般大衆を感動させる義務を負うのかもしれない。

投稿者 masato : 17:08 | コメント (1)