度数の残っていたパスネットが財布の中に見当たらない。そうなると前回出かけたときに着ていたジャケットの中か、もしくはジーンズのポケットの中か、それとも「忘れないように・・」とどこか分かりやすい(?)場所に置いておいたのか。こういうときは無闇に部屋中を探せば見つかるというものでもない。さてどうしよう。こんなとき毎回思う。「あ、その手があったか」と。「部屋の中」を「パスネット」で検索・・・・、残念ながら現実の世界でこの手段は使えない。
先日髪をカットしてきた。前髪の長さから襟足の長さまでまさにイメージ通り、絶妙である。次回髪をカットするときもぜひこの状態にしたいものだ。とはいえ、また次回このイメージを美容師さんにうまく伝えられるだろうか。はっきりいって自信がない。なんかいい方法ないだろうか。こんなとき毎回思う。「あ、その手があったか」と。「コピー&ペースト」・・・、残念ながら現実の世界ではこの手段も使えない。
気がつけば頭の中身にまでデジタル化の波が押し寄せてきたようだ。
「人との約束を守るために最善を尽くす。」そんなポリシーが僕の中にはある。待ち合わせの時間や頭を下げて交わした約束事はもちろん、飲みの席でノリだけで交わしたような会話の中の約束まですべてである。時には突発的な事故でその約束を守れなかったりすることもあるが、人間なのだからそういうこともある。大事なのは約束を守るために最善を尽くすということである。
さて、その一方で世の中には時間にルーズな人たちや約束事をついつい忘れがちな人、天気が悪かったりするなどの小さな理由で約束をキャンセル人なども悲しいことに多々存在する。そういう人たちが僕にとってどう見えるかというと、別にそれほど嫌悪の対象でもない。でもそういうときに笑いながら「悪い悪い」って謝っているのを見ると、「ああ、この人に頼みごとはできないな〜」と思ってしまう。そしてさらに思ってしまうのだ。「この人たちは気付いているのかな。こんな行動の一つ一つが確実に自分の信用度を下げていることに・・」と。
一時期は「ゆとり教育」そして今は小学校からの英語教育が叫ばれている義務教育。社会に出て数年経った今になって、義務教育の期間においてどんな授業が必要でどんな授業が不必要だったか実感できる気がする。今、これこそ義務教育中に取り入れて欲しかったと思う授業がある。名前をつけるだら「職業」という授業になるだろうか。世の中にどんな職業が存在するか。毎時間ごとに一つか二つの職業取り上げ、社会全体に占めるその職業の割合、競争率、その職業に就いている人の生活の時間配分、その職業の目指し方を学ぶのである。
なぜなら多くの人は学生から社会に出たときにそれまで描いていた社会のイメージとのギャップに驚くものだ。そしてある程度の時間社会人として生活してようやく悟るのである。「もっとプライベートな時間を大切にすべきだった」、「もっと遣り甲斐を仕事に就くべきだった」と。そう思うにいたって、ようやく自分の本当に求めている仕事を探し出すか、もしくは仕事を諦めて惰性で過ごすことを選択するかのどちらかの人間が大半である。
終身雇用制、年功序列の法則が崩れる中、そのギャップこそがさらに新卒で務めた業界への定着率の低下に追い討ちをかけているのである。そして望んだ業界へ落ち着くまで時間がかかることによって、技術の習得も必然的に遅れがちになる。ここまで考えると「職業」という授業を設置したなら、若者の技術の習得が早まることによって国際競争力まで向上するのではないかと思えるから面白い。
人に見られている意識を持つと、人は綺麗に(格好よく)なるという。人の多い都会の方が、人の少ない田舎町より綺麗な(格好いい)人が多く存在するのは、この法則によるものと言える。つまり綺麗に(格好よく)なりたければ常に誰かに見られている意識を持つことである。
これに対して、ある程度年齢を重ねてまで人の目を常に気にするなんて小さな人間だ、という意見も世の中には存在する。つまり人の目を気にせずに素の自分を出すからこそ格好いいというものだ。とはいえ、残念ながら世の中に存在するこの意見の主張者達は正直あまり綺麗(格好いい)とはいえない。
結局、自信の主張を繰り返すなら、男である限り常に格好よくありたいと願う。女である限り常に綺麗でありたいと願う。そのために自分に似合う服装を選び、そのために姿勢を良く保つ。そんな意地ぐらいは最低限を持って一生を送りたいものだということだ。そして、それこそが男女の仲を長く維持するための秘訣なのだと思ったりするのだ。結婚した途端、男は休日はジャージ、女は髪型は手入れが簡単なパーマ、などというのは論外である。



