何事にも向上心を持って一生懸命取り組む人達がいる一方で、何事にも一生懸命取り組むことのできない人達がいる。
そんな人たちは何をするにも笑顔を絶やさないため、周囲の人々には楽しむことを第一に行動しているようにも見える。そして本人もまた「私は楽しむことを第一に物事に取り組んでいる」と自分をすっかり誤魔化して行動して、それでわずかながらも満足感を得てしまうから重症である。そしてそんな状態だから彼等が真剣な表情を見せて物事に取り組むことは非常に少ない。
彼等がそんな行動しかできない原因はおそらくこうである。過去の敗北感や挫折感が根強く心の中に残っていて、再び敗北や挫折と向き合うことが怖い。だから敗北や挫折を避けるために、自分が物事に一生懸命取り組んでいることを認めない。もしくは一生懸命取り組むこと自体しないのである。なぜなら一生懸命物事に取り組まなければ敗北感も挫折感も非常に小さなもので済むからである。しかし残念なのは、そんな生き方からは達成感もまた小さなものしか生まれないということである。
こうしてみると他人事ではなくなってきた。これからはこんな問いかけを自分に向けて繰り返しぶつけてみることにしよう。
「一生懸命取り組むことを忘れて、笑って自分を誤魔化してないか?」
駅や街角など、公共の場所のゴミ箱が減ってきているという。そう言われてみると、道端で飲んだ缶コーヒーの空き缶など、捨てる適当な場所が見当たらずに、気がつくと自宅まで持ち帰ってくることがしばしばある。そういうことを含めて考えると、やはり多くの場所にゴミ箱が設置されていたほうが便利である。
ただ、問題点も見過ごせない、ゴミ箱が設置してあれば、ゴミ箱の周辺はゴミに溢れ、時にはタバコの火が引火したり、夜中などに商店から大量のゴミが捨てられたりするという。逆に、街にゴミ箱がなければ、道端にゴミを捨てる人が増えるという。
結局、ゴミ箱を設置した場合に起こる問題も、設置しない場合に起こる問題も、どちらも良心のない人間の行動が原因なのである。つまり、社会の人々の良心に訴えればすべて解決するという、ある意味非常に単純かつ非常に困難な問題なのだ。
そんなわけで、ゴミ箱があった方がいいとかない方がいいとか現時点ではどちらとも言えない。とりあえず、僕自身にはゴミ箱があってもなくても街を汚さないだけの良心が備わっていると言っておこう。
あとは、肩を並べて歩く友人達はもちろん、世間のすべての人にも同じように良心が備わってくれることを願うだけだ。
昨日、JR大宮駅から徒歩5分ほどの場所にあるブックオフで購入した文庫本。今日読んでいたらページの間からレシートが出てきた。どうやらその本を新刊で買った人がページの間に挟んでおいたものらしい。レシートにはもちろん書店名と日付が印刷されている。
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BOOK GARDEN
ディラ上野
JR上野駅構内3階(改札内)
2005/10/26水 22:10
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都内で仕事を終えたのは21時過ぎ。彼は上野駅から大宮駅までの時間を有意義に過ごすために、上野駅構内の本屋に立ち寄った。手ごろな文庫本を購入すると、疲れた人々を乗せた上野始発の宇都宮線(または高崎線)に乗車し、空いているつり革の前を確保すると、たった今買ったばかりの本に目を落とした。大宮まで30分弱。この読書の時間がささやかな楽しみである。
1枚のレシートが、顔も知らない一人の人間の人生を僕に見せてくれる・・・
国と国との威信をかけたスポーツにおいてライバルとされる国がある。サッカーで言うとブラジルとアルゼンチンなどが代表的な例だろう。そして韓国と日本も同様に様々なスポーツでライバル関係と見られているようだ。
昨日日本の勝利で終わったワールドベースボールクラシックでもその関係は変わらないはずなのだが、二次リーグで韓国が日本に2-1で勝利した後にはマウンドに韓国の太極旗が立てられ、韓国の街頭インタビューではこんな声が聞かれた。
「日本が相手なら100回やっても勝てるよ」
「アメリカに勝ったときより爽快だった」
ライバル関係とはお互いを尊重しあってこそ良い関係が築けるものだと思うのだがどうしても韓国側にはそれが感じられない。
戦時中の日本の過ちがそうさせるのだろうが、どちらにしても過剰なまでに日本を敵視する韓国の姿勢。そこには準決勝を終えて僕等日本人が「韓国も強かったよ」と素直に発言することをも躊躇させる程の負のエネルギーがあるように感じる。
骨折で2回、急な吐き気で1回救急車を利用している身である僕は他人事ではない。
とりあえずトリアージの導入には特に異論はなく、むしろ必要なことなのだと思う。気になるのはなんといっても選別の手順である。
めまい、吐き気、鼻血などは、軽い症状に見られがちだが、重い症状の前兆であることも多い。そしてそれを判断するためにいくつかの質問を用意するという。ただし質問が詳細になりすぎて出動が遅れても本末転倒である。どのような手順に落ち着くのか今後の動向を見守りたいと思う。
ちなみに自分の体験を思い起こすと、2回の骨折より、駅で吐き気をもよおして倒れたときの方が早い救急車の到着を望んでいた。そして実際それがもっとも重症だったのだと思う。なぜなら今も後遺症に悩んでいるのだから。
ワールドベースボールクラシック(以下WBC)。野球先進国のアメリカは二次リーグで姿を消した。
今回のWBCをきっかけにアメリカの野球も変わるのだろうか。個人的にはあまり賛成できない。なぜなら「スモール野球」は日本や韓国の野球の個性であって、アメリカの個性ではないからだ。
またサッカーと比較してしまうが、サッカーは国によって戦術が大きく異なりそこに国の個性がある。例えばブラジルは個人技の高さを生かした戦術、日本はチームワークを洗練して玉離れの早い組織的な戦術などである。そしてそんな国の風土を反映した個性のぶつかり合いだからこそワールドカップが面白くなるのである。WBCもそんな個性的な野球のぶつかり合いとして発展していって欲しいものだ。そのためにもアメリカにはパワー重視の「ビッグ野球(?)」を貫いて欲しい。
スポーツクラブのスカッシュコートでのこと。毎週金曜日は19時から22時の枠でイントラがスカッシュのパートナー(いわゆるヒッティングパートナー)を務める日、今日のイントラはいつもと違う女性だった。そのイントラが不意に声をかけてきた。
女性「このスポーツクラブはもう長いんですか?」
僕「いえ、まだ入会して一ヶ月程度です」
女性「以前、神奈川の方にいませんでしたか?」
記憶を辿るとどうやら、11月まで会員として所属していたティップネス宮崎台のスカッシュコートで何度か見かけた女性に似ている。
僕「あ、ひょっとして宮崎台にいた人ですか?」
女性「そうです。最近見ないんで退会したのかな〜って思ってました。」
せいぜい4,5回コートの外ですれ違っただけの男をしっかり記憶していることに驚く。彼女の記憶力がいいのか、それとも僕が人の記憶に残る存在だったのか。
それにしてもスカッシュを続けているとたまに訪れるこんな再会。こんなときスカッシュというスポーツの競技人口が非常に好ましく思える。多すぎて知り合いに二度と会わないなんてこともなく、少なすぎて相手に不足することもない(少しあるかな?)。他のスポーツにはないスカッシュの魅力の一つである。
ワールドベースボールクラシックの日本対アメリカ戦。3-3で迎えた8回表の日本の攻撃において、タッチアップによる得点がアウトと判定されて物議をかもしだしている。確かにモニタで見る限り判定は間違っているといわざるを得ない。そもそも、日本対アメリカの試合でアメリカ人が審判をしていることも問題である。第三国の人間が審判を務めるのはサッカーの試合などでは常識となっている。これは今後改善されるべき問題なのだろう。
判定に関して王監督は「あの判定はおかしい」と主張していた。あまりにも堂々と主張していて逆に恥ずかしさを覚えたのは僕だけだろうか。なぜなら「あの判定はおかしい」という主張は、「あの誤審がなければ日本が勝っていた」という主張であって欲しかったからだ。そして、そのためには9回裏はなにがなんでも0点に抑えるべきだったのだ。しかし残念ながら9回裏の日本の選手たちからはその1イニングの重要性が感じられず、最終的に二死満塁から適時打を浴びて日本はサヨナラ負けを喫したのだ。
「いくら騒いだってどっちにしろ日本は負けていたんだよ」
そんな声が聞こえてくるようだ。
スカッシュの合間の休憩の一時のこと、一緒にスカッシュを楽しんでいた女性に言われた。
「クールですね・・・」
「はい・・!?」
褒められているのかけなされているのかわからない。
ただ単にみんなと同じようにスカッシュを楽しんでいるだけで、周囲の人にそれほど自分の情報を与えていないのに、
それでも与えられたわずかな情報から「クール」と形容される理由がわからない。
これも「個性を発揮できている」と前向きに捕らえていいのかな。
平日の午前中。デパートの8階にある書籍売り場で中年夫婦が軽く言い争っていた。
女性 「店員さんに聞いてみればいいじゃない」
男性 「いいんだよ。見つからなかったら見つからないで」
女性 「せっかくここまで来たのに〜っ!?」
僕も昔同じように当時付き合っていた恋人と言葉を交わしたことがある。
だから、その男性の気持ちすごくわかるんだ。結局本屋に来たいだけなんだよ。本屋に行くための正当な理由のために「あの本が欲しい」って言うけれど、そんな本はなければないでいいんだよ。本当の目的は、刺激に溢れた本屋という空間を満喫することなのだから。
この考え方って男性特有のものなのかな。
「あ〜っ」
正午前、小雨が降っていて肌寒い。そんな駅からの帰り道に突然、子連れの女性から声をかけられた。
よく見ると、中学校のときの同級生。
2歳ぐらいの女の子と手をつないで、背中にも女の子(たぶん)をおぶっていた。一言二言近況を報告。彼女は今は実家で暮らしているとか。髪型や服装などが家庭的になったものの、昔と全然変わらない、そのまんまおばさんになっていくんだなって思った。
「よく俺だってわかったね?」
「うん、なんか、それっぽかったから」
何が「それっぽかった」のか分からない。「姿勢」なのか「歩き方」なのか「服装」なのか、それでも7年ぶりに再会しても「それっぽい」って思わせるような、長い間変わらないものが自分にあるってことがなんか嬉しかった。
とあるニュース番組をぼんやり眺めていた。天皇皇后両陛下が三宅島を訪れたという。
三宅島の住人がカメラに向かってコメントしていた。
「(両陛下が)まさかここ(三宅島)に来るとは思っていませんでした。」
日本語のコメントなのに何故か字幕がついているから不思議だ。
「まさかここに来られるとは思っていませんでした」と字幕は微妙に敬語に変えられていて、少し違和感を覚えた。
続いて、アイシャドーの濃い女子高生もコメントしていた。
「『頑張ってください』って言われました。一生の思い出になると思います。」
その女子高生の風貌とコメントの内容にずいぶんとギャップを感じて、「本当にそんなこと思っているのかな」と思ってしまった。
実際には「天皇なんて日本に必要なの?」というような冷めた目で見ている人もいるのだろう。でもそんな人のコメントは公共の電波には乗らないのだ。こんなとき、「表現の自由」って何なんだろう、「真実」って何なんだろうって思ってしまう。
警察官の拳銃自殺は今に始ったことではない。ある意味しばしば起こって当然の事件とも思える。
普通、人間の本能は自殺を選択したりはしない。生きることに目標を失うなどして自殺願望が大きくなっても、「死ぬ」と「生きる」のハザマで心の針が揺れ動き、結局「生きる」に落ち着くからである。だから「死にたい」と思っても時間をかければ結局「生きる」ことを誰もが選ぶはず。
時間をかけることの出来ない人、もしくは「死ぬ」と「生きる」の間で揺れ動いた針が「死ぬ」側に触れたわずかな時間に結論を急いでしまった人だけが例外として自殺を実行することになる。そして多くの場合、人は「結論を急ぐ手段」を持ってはいない。
警察官が例外なのはそこに拳銃という「結論を急ぐ手段」があるからだ。



