大学時代に半年ほど在籍したテニスサークル。最初のサークル全体での顔合わせの場で、新入生も含めた全員が自己紹介をした。そしてそのまま先輩に連れられてテニスショップにラケットを見に行ったときのこと。そこで会話した当時主将をしていた3年の先輩は、なんと一度しか聞いていない新入生の名前を全員しっかり記憶しているではないか。その時、僕はその人が主将を務めていることにすっかり納得したことを覚えている。
それ以来「人の名前は一度でしっかり覚える」というのが僕が生きていく中で心の中に刻み込まれたポリシーの一つになった。
そして今。スカッシュのホームコートを変えてまだ一週間程度、相変わらず行くたびに初対面の人がいて、そのたびに自己紹介を兼ねた挨拶が交わされる。今日も同年代の女性と初顔合わせ。「○○と言います〜」「あ、初めまして△△と申します〜」。いつものように名前と顔と声と全体の雰囲気を頭の中に刻み込む。
小一時間後、先ほどの女性がスカッシュで汗をかいたシャツを取り替えたようだ。赤いシャツから青いシャツに着替えただけで印象ががらりと変わる。先ほどの記憶の自信が揺らぐ。これがまた私服に着替えたらさらに変わることだろう・・・う〜ん、それでも頑張って僕はポリシーを貫き通す。
トリノオリンピック女子フィギュアスケート。今更説明するまでもないが、日本からは安藤美姫、村主章枝、荒川静香の3選手が出場している。素人目には競技におけるその技術の細かい違いまではわからないが、競技の外には大きな差を見出せる場がある。それは、各局のインタビュアーに応える彼女たちの話し方である。
表情は豊かだがまだボキャブラリーの乏しさを感じさせる安藤。最初から用意された言葉でどこか的を得ない受け答えをする印象の村主、表情は乏しくても自分の気持ちを的確に言葉で表現する荒川。そんな視点で見つめると、話し方とは本当に重要なものだと感じる。彼女たちの話し方の中に人間的な完成度までが見え隠れするようだ。
そして、本日荒川静香の金メダルで幕を閉じたその競技の結果は、まさにそのコメント力が反映された形だと感じるのは気のせいだろうか。
自分に許せる範囲で仕事に生きがいを感じる人間でありたい。
自分に許せる範囲で愛し誇れる恋人を伴っていたい。
自分に許せる範囲で常に自分と戦い続ける競技者でありたい。
自分の許せる範囲で広い分野において知識を有していたい。
自分の許せる範囲で多くのことに挑戦し続けていたい。
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何一つ達成できていない気がするのは、「自分の許せる範囲」が狭いからなのか、それとも自分に甘いからか。
世間はトリノオリンピックで連日騒いでいる。こんな時期、僕はアスリートという生き方に憧れる。一つの競技のためにわき目も振らず努力をする。そんな一直線な生き方である。仕事も食生活もプライベートもすべてその競技を中心に決まる。行ってみれば、その人の人生にはその競技という絶対的な中心軸が存在しているのだ。きっと「芯のしっかりした人」とは本来、彼等(彼女等)のような人たちのためにあるのだろう。
でも忘れてはいけない。僕等が眼にするアスリートの姿は、メディアの取材を受けるまでその競技を極めたほんの一握り。氷山の一角であることを。日の目を見ずに消えていったアスリートたちは数知れない。
これは日本という国が長い時を経て育んだ文化なのか。ある程度歳をとってからもう一度人生を考え、やり直そうとする行為はなかなか受け入れられ難い。たとえば三十歳を過ぎてもう一度大学に行って勉強したいと思ってもなかなか実行に移せない空気が日本にはあるように思える。そしてそんな国の中で生活していると思ってしまうのだ。
この「べきじゃない」と戦うのが自分が本当に望んでいる生き方にたどり着くために非常に大切なことなんじゃないかな。
小さな声で世の女性たちに叫んでみようかな。
今ならいい男が安値で手にはいるぞ〜
そしてこの男の価値はこれからまた急上昇するんだ・・・きっとだ。
テレビなどのメディアでよく取り上げられる、スーツをびしっと決めて働くベンチャー企業の精鋭達や大手企業で大きなお金を動かす企業戦士達。彼らが資本主義社会という手の平の上で踊らされている小さな存在に見えてしまうようになったのはいつからだろう。もっと大切なモノがあるんじゃないか・・・と。僕の中に以前から存在していた小さな兆しは、今ではより確かなモノになっている。一日に何億モノお金を動かす人よりも、一匹の動物、一本の木を守るために悪戦苦闘している人のほうがはるかに格好良くて魅力的だと。
そんなことを考えながらも僕も未だに踊らされている中の一人から抜け出せない。
人生とは多くの「妥協」から構成される。よく「何においても妥協はしない」などという言葉を耳にするが、そんな人間など存在し得ない。なぜなら人生が仕事、子育て、恋愛、その他プライベートなど多くの分野に別れている以上、すべての分野で妥協しないなどあり得ないからだ。例えばイチローが野球においては妥協していないとしても(それすら僕は認めていないが)、夫婦関係など別の分野では妥協を強いられているに違いない。そうやって誰もが妥協を繰り返して自分の落ち着き場所を見付けているのだ。
それでも周囲で少しずつ落ち着いてきた人達を見て思ってしまうのだ。「よくそれで妥協できたモノだ」と。妥協する場所の見付けられない僕はこれからどこへ行くのだろう。
早見優(39)、八木亜希子(40)、秋本奈緒美(43)、黒木瞳(45)、東山紀之(39)、仲村トオル(40)・・・・・歳をとっても綺麗な人、格好いい人はいるな。あのオーラを形成するものは一体なんなんだろう。彼らを見ると「僕もまだまだこれからだ」などと思える。
昨日の朝日新聞のスポーツ欄。ロシアのフィギュアスケート選手、イリーナ・スルツカヤの記事が載っていた
不条理にハンデを背負ってしまった人は世の中に意外とたくさんいるようだ。そしてそれを克服している人もまた少なからず存在している。



