土曜日の夕方、アパートに帰ると、なぜか自分の部屋のドアの前に紙袋に入った花束が・・・、正直かなり怖い。どう考えても今日は自分の誕生日ではないし、その他記念すべき日でもない、誰かに恨まれただろうか・・・と警戒しながら紙袋の中身を調べてみたのだが、どうやら花束以外は入っていない模様。
それでも怖いのでさっさとアパートに備え付けのゴミ置き場に捨ててきたのだがあれは一体なんだったのだろう。「恨み」か「感謝」かわからない(たぶん部屋を間違えたのだと思う)のだが、それを誰かの「恨み」と受け取ってしまう性格が悲しい。
そんなに人に恨まれるようなことはしていないつもりだが、誤解は多少与えているような心当たりが有るのだ。
先日仕事帰りに2週間ぶりに実家へ戻った。いまや3週間おきとなった実家近くの病院への通院のためである。その日は駅に母に迎えに来てもらって。翌日は病院へ行く前に社会保険事務所へ行ってもらって傷病手当金請求書を受け取り、さらに病院まで送ってもらった。さらに診察後は、せっかくなので親子で昼食でもしようかということでパスタを食べた。
午後から会社に出社するために、母と別れる前
「じゃ、今日はありがとう」
と一言。
社会人同士なら親切にしてもらったら当然言わなければならない言葉だが、学生時代、親と一緒に暮らしている頃にはおそらく出てこなかった言葉。
僕も丸くなったということかな・・・
学生時代のこと。通勤ラッシュの時間帯に東京の上野駅から埼玉の大宮駅に向かうことがよくあった。宇都宮線や高崎線の始発駅であった上野の駅では、ホームにはすでに同じ路線の列車が多数停車している。そんな中、ドアすら開いていない列車に列を作る人達もいる。きっと仕事で疲れ切って、さらにこの先1時間、2時間もの長い時間列車に揺られて帰途に着く人達なのだろう。彼らは15分待ってでも座って帰りたいのだ。たった30分程度の帰途の僕でも彼らの気持ちはなんとなく理解できる。そして、そういう人達が多くいるせいか、座席に座れる乗客の多くは長い時間ホームで並んで待った人ばかりなのだ。
しかし途中駅の赤羽でさらに人が乗車してくる。その中にはたまに年老いた人もいる。そんな時、席を譲る人もいるが譲らない人もいる。たまたまその時の僕は彼が長い時間ホームで待ってようやく座ることができた事実を知っていたから譲らなかった人の気持ちも少し理解できる。しかし世間の目は冷たい、その彼は乗客達のプレッシャーを受けたことだろう。そのプレッシャー自体、彼自身の良心が作り出したモノなのかもしれないのに。残念ながら世間の目の多くは、その一瞬の一コマで人の善悪を判断するのだ。前後関係を理解する術(すべ)がないのだから仕方のないことだ。
でも、そんな世の中で、人生の中で一瞬しか関わらないような人に対して、前後を理解しようと努力した上で善悪を判断する。そんな気持ちを常に持ち続けている人こそ大きな存在価値があるのではないか、そんなことをふと考えた。



