JR西日本の記者会見では、各局の記者が必要以上に声を張り上げて詰問する。
僕はマイクを向ける彼を見て思うのだ。「その高圧的な態度はなんなのだ」と。
遺族は献花台の横に立つJR西日本の社員に向かって罵声を浴びせる。
「おまえたちが俺の友達を殺した!」とか・・・
僕は思うのだ。「下っ端の人間に怒りをぶつけたところで何も変わらないだろうに」と。
今でもJR西日本の社員へのいやがらせは続いていると言う。
運転席の後ろのガラスに「死」という文字を印刷した紙を貼られていた。女性駅員が客から蹴られて危うく階段から落ちそうになった。
僕は思うのだ。英雄になったつもりだろうか。国民すべての怒りはJR西日本に向けられていて、自分がその先頭に立っているとでも思っているのだろうか。正しいことをしているという意識があるのなら何故逃げるのだろう。なぜ力の弱い女性を狙うのだろう。結局みんな自分の行動を正当化できる理由があったうえで、怒りや憎しみをぶつけられる相手を探しているだけだ。
脱線事故ですっかり影の薄くなった中国の対日デモ。競うようにして日本大使館に石を投げているの中国人を見て、多くのに日本人は「なにがそんなに憎らしいの」と思っていたかもしれないが、日本人も中国人も、国籍問わず、人の行動は大差ないように思えてしまうのだ。
誰かが誰かに怒りや憎しみをぶつけ、そしてぶつけられた側はそれによってさらなる怒りや憎しみを抱え、他の場所に攻撃できる対象がないか常に目を光らせて探している。この人間界ではそんな不毛なサイクルが続いているのだ。だとしたら、こんな世界で本当に評価できる人はどんな人なのだろう。僕は思う。怒りや憎しみをぶつけられてもそれを他に向けようとしない人だ。自分の中で怒りや憎しみを消化できる器を持った人だ。
脱線事故の遺族の中にもそんな人はいた。インタビューに答えていた一人の男性のコメントが印象に残っている。「現場の人たちはみんな一生懸命やってくれた。彼等を責め立ってなんにもならない」と。本当の英雄はあの種類の人だ。それなのに、報道に取り上げられるのは一部の英雄気取りの人ばかりだ。
デモの最中の中国にだってそんな人はいたはずだ。中国人全員が日本に怒りを持っているなんてことは絶対にない。カメラに写らない場所にこそしっかりした器を持った人は必ず存在していたはずだ。
怒りや憎しみを自分自身で消化できる心を身につけよう。
目に付く汚れた真実だけでなく目に見えない奇麗な真実を見極める目を持とう。
そうだろうね。象徴的なのは雪印の事件。ありゃはっきりいってペンの暴力だろうね。どんな人間だって生理的な欲求はあるだろうし、それをクローズアップしてnegativenaなイメージ植えつけられてもねーって感じでしたよね。
真実って経験に裏づけされた個々人の解釈しかねえだろうね〜。小林多喜二が言うプロレタリートだって1910年台と2005年では言葉の解釈は違うようにね。



