ある店の場所について友人と話していたことがある。彼はこう言う「パスタ屋のところを右に曲がって、洒落たカフェのわきの道を入って・・・」。僕には彼の言うパスタ屋も洒落たカフェもどこにあるのかわからない。そこでこう聞き返した「つまりサッカーショップの近くだよね?」ところが彼には僕の言うサッカーショップの場所がわからない。結局その話は通じなかった。なんというか、生き方や考え方で日常生活から取り入れる情報が全く異なるのだと感じた。そしてその考え方の異なる友人の話はいつも僕に新しい刺激を与えてくれるのだ。
どの時代にも人間はグループ分けされていて、そのグループを飛び越えるには大きな行動力が必要である。例えば中学生は年齢でグループ分けされていて、1歳年が違う人と接するのさえ難しい。その理由はフロアが違ったり、ジャージや名札の色が違ったりという小さなものだ。
あれから15年経った今、グループの分け方は少し変わった。その分け方は仕事だったり趣味だったりときには出身大学などというくだらないものである。そのグループの中で、みんな同じような考えを語り、同じような考えを持った人に同意してもらって満足してる。そして、そんなグループのなかの居心地のよさに浸りながら「なにかおもしろいことないかな〜」などと刺激を求めてぼやいているから滑稽である。それが今の世の中の大部分の人の姿である。
気が付けば、15年前には隣の席にあった新鮮な考え方、刺激的な考え方はどこか遠くのグループに吸収されてしまったようだ。今の社会でその考え方に触れるには相応の行動が必要となる。しかし悲観するなかれ、今は別のグループに飛び込んでいったとしても「おまえ生意気だよ」などと因縁つけられて体育館の裏に呼びだされることはない。恐れることなく他のグループに飛び込んでいって、いろいろな生き方、考え方に触れるべきだ。
仕事と睡眠以外の時間。(僕にとっては休日以外にはありえないのだが)そんな貴重な時間の多くを本を読んで過ごしていることにふと気がついた。
本を読むことはもちろん大切だ。作者が、人生のなかで経験したことを読者に伝えようと、試行錯誤した結果の産物だからである。(もちろんページ数の割りに内容の薄い本も世の中には多々存在する)読書をすることによってお金や労力をかけなければ経験できないこと、学習できないことを学ぶことができるのだ。
しかし、それでも実際に体験することと比較したら遠く及ばない。いろんな体験ができる可能性のある自分の時間の大部分を読書という行動によって終わらせてしまっていいものか、そんな思いに突然とらわれて、自分の読書の時間を制限することにした。
読書をしてもいいのは、電車の中やATMの待ち時間、待ち合わせで人を待つ時間など、読書以外に有効な時間の過ごし方がない場合のみ。そんな制限である。
さて、そうなると本が読みたくてたまらない。するとなんということか、朝と夜の満員電車に乗るのでさえも楽しみになってくる。「ああ、やっと本が読める」と。
会社の通勤の途中の、電車の乗り換えのときだったり、デパートのエスカレーターに乗っているときだったりする。昔のこと思い出して、「あのときは笑ったな〜」とか「あいつはバカだったな〜」とか考えて、一人でニヤついていたりする。そうやって普段の生活の隙間でほんの少し思い出に浸ってたりすることがある。
そしてふと気がつくと相変わらず周囲はせわしなく動いていて、いつもと変わらない日常だった。そこでなにをもって判断するのか、視界に入る色の鮮明さからか、それとも輪郭の明確さからか、それともほんの少し過去の記憶をたどってみて、その記憶との連続性からなのか、なにを判断材料としているかはわからないが、とにかくなにかの理由から僕は「ああ、これが今だな、きっと」そう思って普通の生活に戻る。
こんなことをたまにふと考える人は僕以外にもいるのだろうか。こんなとき僕は思うのだ。現実と思い出や空想との境界線って実は小さなものなのかもしれない。と
「オーラがある人」ってたまに言ったりするけれど、別にその人が実際に特別な何かを周囲に発しているというわけではない。だとすると「オーラのある」と言われる人は普通の人とどこが違うのだろう。そんなことをふと考えたあげくこんな結論に達した。
「オーラがある人」とは常に同じキャラクターを発している人なのではないだろうか。相手が誰であろうと、年上だろうと年下だろうと、地位の高い人だろうと低い人だろうと、その人は態度を変えたりしない。といってももちろん目上の人に敬語を使うのはしているが。そんな人じゃなというマナーは備えたうえでのことである。そういう人は周囲に「この人はこんな人」とういう固定した印象を植え付けてあって、それが「オーラのある人」といわれる理由ではないか。つまり、この考え方によると相手によって態度をコロコロ変えているような人に「オーラのある人」はいないわけだ。
「オーラのある人」なんて言われてみたいものだが、言葉で言うのは簡単でもなかなかできるものではない。相手が素敵な女性だったり、怖そうな兄ちゃんだったりしたら、突然饒舌になったりやたら下手に出たりと、態度は変わってしまうな、きっと。
まだまだ修行が足りない。
年上の人を敬う。そんな考えはいつごろから、どんな理由から出来上がったのだろう。おそらくどこの国でも例外なく、長く生きている人は人生経験をたくさんしていて、いろんな知識を持っているからなのだろう。
しかし情報のあふれた現代の社会、知らないことは調べようと思えばすぐに調べることができる。例えば100個の疑問が頭に浮かんだとしても、ネットにつながった端末さえ目の前にあればそのうち99個(ひょっとしたら100個)は10分もかからずに調べることができるだろう。そういう意味では知識人たちの存在価値は徐々にではあるが確実に下がっているのである。(だからといって年長者を敬わないでいいということではない)さて、ではこれからはどんな人たちが存在価値があるのか。
これからは情報収集能力の高い人である。必要な情報をどれだけ早く入手できるか、そして真偽のさだかでない膨大な情報の中からどれが信用できる情報かを見極める能力である。
もし、ある人が気になって、その人が今後人生において成功するか否かを見極めるのに重要なてがかりとなるものは、ひょっとしたらその人のインターネットの利用の仕方、YahooやGoogleの検索の仕方なのかもしれない・・
経営者と社員は対等である。経営者が賃金を支払うのと引き換えに社員は労働力を提供する。言ってみれば資本主義社会の当然の関係である。しかし、大部分はこの対等の関係がどちらかに傾いている。そのきっかけは非常に小さなものある。例えば、雇ってもらったときに社員が必要以上に「雇ってもらってありがとうございます!」を連発してしまえば、経営者の方が「雇ってあげた」という貸しを作ったことで立場が上になるし、一人の社員が「辞めようかな〜」とぼやいたときに必要以上に経営者が「どうか考え直してくれ」と必要以上に頭を下げれば、その社員は「頼まれたから残ってやった」という貸しをつくって立場が上に立つ。結局、経営者の下で社員として働く以上、立場が上にいたほうが居心地のいい毎日が送れるということだから、その小さなきっかけを不用意に作ってはいけないということだ。
で、僕はというと、3ヶ月ほど前に、以前勤めていた会社に引き戻された。つまり僕が今の会社にこだわる思いよりも、会社が僕にこだわる思いの方が強いということだ。だから自分の中ではすでに立場は上。だから毎日は「このやり方が気に入らなければクビにしてください。いなくなって困るのはそっちでしょ」という態度である。(といってももちろん仕事を適当にやっているわけではない)。「一生懸命働きますからクビにしないで。」なんて態度を出して(そんな気持ちもないけど)、立場を逆転されるような行動はこれからも決してしないのである。
「若く見える」とか「老けてる」とかよく言うけれど、あれってなんなんだろう。そのテの話題の大半は見た目から感じられる年齢と実年齢との差のような印象を受けるが、実は行動や仕種、ことば遣いから感じられる年齢と実年齢の差のことを言っていることも多々あるように感じる。「なんか落ち着いているから」などと言われる場合は後者であろう。この2種類の年齢の感じ方を、「実年齢」に対して、前者を「見た目年齢」、後者を「ふるまい年齢」ということにする。
こんなしょうもないことを考えるようになってから、初対面の人には、しばらくその人を観察して「見た目年齢」と「ふるまい年齢」を自分なりにわりだしてから当人に年齢を聞くようになった。年齢を聞いて、「実年齢」と「見た目年齢」の差。そして「ふるまい年齢」と「実年齢」との差を観察してその人がどんな人かを判断するのである。例えば、「見た目年齢」が「実年齢」よりも低ければ、その人が物事をどれだけ前向きにストレスなく受け止めて、生きるパワーに変えているかを判断できるし、「ふるまい年齢」がが「実年齢」よりも高ければ、その人が今までどれだけ向上心を持って生きて来たかを判断する指標になると勝手に思っている。
ちなみに理想はもちろん、『「見た目年齢」は「実年齢」よりも低く、「ふるまい年齢」は「実年齢」よりも高く』である。僕の場合、「見た目年齢」は歳相応、「ふるまい年齢」はなんと30を余裕で超えているらしい・・ということは、とりあえず上に上げた採点基準だと平均点以上ということだ。
そういえば僕の周りには何人か年齢不詳の人たちがいたが、そういう人は上に挙げた採点基準だと平均点以下になる傾向が強い。つまり、見た目は老けていて行動や仕種は幼い・・。悲しいかな。彼、(彼女)らが年齢を秘密にするのは自分が生きていた期間のなかで身につけるべき常識や行動をしっかり身に付けてきてなかったという自分自身を恥じているからなのかもしれない。
とりあえず僕は、残業だらけで見た目の若さはなかなか維持できないかもしれにが、常に向上心を持って、いつでも胸をはって実年齢をこたえられるような密度の濃い時間だけは過ごしていきたいものだ。
今日は世間ではホワイトデーらしい。世の女性たちは1ヶ月前、いろいろ悩んだことだろう。上司だけにするか男性社員全員に渡すか、他の人たちの動向も見ながら、そしてこう思うのかもしれない「バレンタインなんてなくなればいい」と。
しかしホワイトーで返す側の男もまたいろいろ悩むのである。返す以上、もらった人には例外なく返さなければいけないというポリシーを元に本日も悪戦苦闘している。
昨年などはかなり難しい状況で、社内の4人の女の子のうち3人が一緒にお金を出してチョコレートを渡してきた。つまり一人の女の子が仲間はずれにされていたというわけだ。こうなると返すのはタイミングが非常に重要になる。つまり、その仲間はずれにされた女の子の見える前でお返しをすることは、その女の子に「自分が仲間はずれにされた」ということに気づかせることになってしまう。また、それだけではなく、なぜか世の男性はチョコをもらっておきながら意外とホワイトデーという日に疎く、お返しのことなどすっかり忘れている人が多い、そんな理由からみんなの前でお返しをすることで「俺も返さないと・・」と周囲の男性方に肩身の狭い思いをさせてしまうのもまた避けたいのである。結局、他の男性社員が食事に出て、仲間はずれにされた女の子が先に帰ったそのタイミングを1日待ち続けていたのである。
さて、今年はとりあえず社内には一通り返し終えた。残念ながらサッカーの女子部の女の子にはタイミング良く会う機会がなさそうだが、かといって義理チョコ相手にわざわざ相手を呼び出す気にはなれないし、これはメールで気持ちだけ伝えて対処しておくか・・・それも必ず日付が変わる前にである。
どうなんだろう・・みんなこんなに毎年悩んでいるのだろうか・・
とはいえこの制度自体には反対ではない。人へのプレゼントに悩むことも、高いチョコをたべることも、この制度がなければ僕には無縁の話になってしまうからだ。それも悲しいではないか。悩んだ分その一日は深く記憶に刻まれるのである。
会社で次の採用について上司と話すことがある。「どんな人材がいれば作業が楽になるか。」ということを聞かれるのである。基本的に会社はデザインやWEB技術に関するスキルをすでに持っている人を探しているようだが僕の考えはまた少し違う。
僕はデザインなどのその仕事特有の何年も時間をかけて育まなければ身に付かない技術が必要とされるのは、それがどんな仕事であろうと仕事全体の50%以下だと考える。そんな理由から、僕が欲しいのは単に「頭のいい人」である。社会人としての常識を備えたうえで、しっかりとした段取りやクライアントの会話の進め方、連絡の取り方、周囲の出来事から学ぶ学習能力、今ある仕事を頭の中でしっかり時系列、種類別など分類できる能力。そんなどんな仕事でも共通して使えるような能力を持っていれば、その仕事特有の知識などは今の情報化社会の中で仕事をしていれば半年もすれば身に付くのだ、つまり半年もすれば僕と同じように仕事がこなせるようになるのだと思う。特に僕が関わっているようなIT関係の仕事であれば、4年も5年も前の技術等はすぐに古くなってしまい、今の仕事をするうえでは特に知っていなければいけないということは無い(もちろん知っていて損はないが)。
そう考えると、仕事のできる人はどんな仕事にも適応できるということだし、僕自身もいつでも仕事を始めてから半年も経ってない人に抜かれる可能性があるということだ。さて、では、これから僕はどこへ進むか。そんなことも常に考えている。僕が進むべきは、今の仕事をつづけながらこの仕事特有のセンスを磨いて、新しくこの仕事に参入してくる若い世代に対抗するか、もしくは、どんな仕事でも通用する基本的スキルが備わっている自負をもとに、いろんな仕事を渡り歩くか、である。



