青い色を持つ男がいた。彼は進む、最初に白い場所に飛び込んだ。しばらくその場所にいると、その場所は水色になった。彼はまた新しい場所を探して進む、次に赤い場所に飛び込んだ。またしばらくその場所に留まると、その場所は紫になった。彼は青いままである。彼は通って来た道を振り返ってみた。青味を帯びた奇麗な色の道に見えた。彼はまた新しい場所を探して進む。
別の場所に青い色を持つ女がいた。彼女は進む。最初に白い場所に飛び込んで行った。しばらくそこにいると、彼女は水色になった。なんだか自分を見失いそうになって、彼女は別の場所を探しにいった。次に赤い場所に辿り着いた。しばらくすると彼女は紫になって、さらにその場所に長く留まると、とうとう赤くなった。彼女は思った「私は一体何色だったのだろう・・」と。
ネガティブな考えばかりして悩んでいる友人を見てこんな例えを思い付いた。マイナス思考だからどこに行っても何をやっても後悔する。自分を信じて自分の色をしっかり持っていれば、他の色に染められることもなく、周りが自分色に染まって、そして、どこにいても居心地はよくなるのではないか。そうすることで、自分の世界を広げることに積極的になれるのだと思った。
容姿というのは人を好きになる上では無視出来ない要素である。「性格良ければ外見なんて全く気にしない」と胸を張って言える人いるのなら会ってみたいものだ。そんな中、世間ではこんなことが言われている。「男性は女性の容姿を重視するが、女性は男性ほど容姿ばかりを気にしないで、どちらかと言えば性格を重視する」と。つまり男より女性の方が人の本質を見ることができる。ということになる。本当にそうなのだろうか。ひょっとしたらこんな考えもできるのではないか、と思って書いてみる。
スポーツをしている瞬間など、真剣な表情でなにかに取り組んでいる瞬間が魅力的なのは男も女も同じである。しかし、男性より体力の劣る女性はスポーツの分野においては男性ほど注目度が高くはない、また、社会の中で責任有るポジションにつくのはいまだに男性の割合が多い。そんな差によって、物事に真剣に取り組む機会は必然的に男性の方が多くなるのではないだろうか。そしてそんな男性の真剣な表情に惹き付けられた女性たちによって、「女性は容姿よりも性格を見る」という法則が言われるようになったのではないだろうか。
氷山に激突して1時間半すでに船は沈みかけて、もう助かる可能性はほとんどない。甲板では、なにがなんでも救命ボートに乗ろうとする人たちでごった返す。その一方で、静かに子供たちの寝顔を見つめながら死の瞬間を待つ母親がいた。自分の作った船と一緒に死の瞬間を迎えようとした男がいた。救命胴衣をつけることを拒んで、最後まで紳士としてみだしなみにこだわって死を迎えることを選んだ老人がいた。映画「タイタニック」のワンシーンである。僕はあのシーンが好きだ。
映画だからそんなふうに登場人物がカッコ良く描かれているのかもしれないが、死が迫った瞬間。人間はどんな行動をするのだろう。僕は思う。世間で思われている程ジタバタしないのではと。最後ぐらいカッコ良く死にたいとか、自分の人生という作品が完成する最後の瞬間こそ自分にとって納得の行く形で終わらせよう。そう考えて行動する人間は世の中には意外とたくさんいるのではないか。もちろん僕自身もそんな行動ができると信じている。
だから脇役たちにもしっかりした人間性を植え付けて描かれたあのシーンが好きだ。
メールを読む際、その文章は最初は文字として認識されるが、読み進めるうちに、声に変換されて頭に響いてくるようになる。頻繁に会う人からのメールはその人の声に変換されて頭に響くのだが、めったに会わない人からのメールは少し違ってくる。
忘れた頃にたまにメールをくれるだけ、そんな女友達が何人かいる。そのうち一人のメールを読んでいると、例によって声が頭の中に響いてくるわけだが、ある時、その声がメールをくれた女性の声とは別の声だということに気付いた。では誰の声なのか、というと、特に誰の声でもない。しかし、その声は、聞いていて心地の良い声で心地の良い間の取り方で、心地の良いイントネーションで響いてくるのである。
きっと、メールをくれた女性の声を覚えていないから、自分にとってもっとも違和感のない声に変換されるのだろう。しかし、このことが事実ならば、メールのやりとりは言葉使いさえ気をつければ、直接電話する以上に相手に好印象をあたえるということになる。今も昔も、メールや文通が恋愛にとって重要な役割を果たすのはこれが理由なのかもしれない。



