「自分の意見をしっかり持っていて、リーダーシップのとれる。そんな一人で生きていけそうな女性が理想のタイプである。」僕はよくそう言っている。しかし、そんな女性が周りにはいなくなったように思える。出会いが少ないわけではない、どちらかといえば人との出会いは多い方だ。昔を思い出してみると、学生の頃はそんな女性はクラスに1人か2人は必ずいたものだ。例えるなら学級委員が勤まるような女性である。そんな女性がどうして最近見かけなくなったのだろう。そんなことを考えてみた。結論はこうだ。
社会への女性進出は進んではいるが。それでも世の中は僕らが思っている以上に男性社会である。女性が男性の上に立てば疎まれるし、セクハラや出産などの問題も抱える。そんなわけで、仕切ったり、意見をはっきり口にできる女性がその性格を維持したまま社会で生きて行くのはつらいのである。その結果、多くの女性が社会で生きて行くうちに少しずつ控えめな女性に変わって行くのだ。ある意味それが賢い生き方なのかも知れない。
こうして僕の好きな女性は絶滅して行く。きっとこれが真実だ。
初めてE-mailというものを使った時、その内容はというと、名前を書いて、最初の挨拶をして、用件をいれて、終わりの挨拶で締めくくる。そんな流れだったと思う。今思えば、あの頃のメールというのは「手紙のデジタル版」であって、人と会って、会話して、そして別れる。その一連の流れを文章中で表現していたように思う。
あれから10年。メール端末の主体はPCから常時携帯する携帯電話へと移行し、それによってメールの文面は短く、そして回数は多くなっていった。先ほどの例と同様に例えるのであれば、常に相手は近くにいて、会話したい時に会話する。そんな形態に変わってきたような感じる。つまり今のメールには「出会い」はあっても「別れ」が存在しない、代わりにあるのは「消滅」である。
さて、そのようにメールの存在意識が変化してくると、メールの中で日常生活と同様なマナーが必要になってくるのだろう。例えばメールで
「○○のこと教えてほしいんだけど」
「それは○○だよ」
というような会話を交わした時、日常生活なら当然
「ありがとう」
という言葉が必要になる。メールでも同様ということだ。しかし、この最後のメールがない人も多く、そのような人に対してはわずかながら嫌悪感を覚えてしまう。日常会話と違って、この一言にもメールの送信料が課金されるというのもある。人によってメールという文化の根付き方が違うというのももちろんある。しかし、メールが「手紙のやり取り」から「会話」という存在に変わりつつある中、やはり人間関係をうまく維持する上では必要なことなのかな・・・
今月でこの会社も終わりで、来月からは新しい会社である。特に大した感慨もない。
同じ時期にやめる女性がいる。彼女は僕より半月前で終わり。有給を3日消化するということなので実質今日が最後である。今週の彼女は遅刻が多かった、消化しきれない有給が溜まっていることもあり、評価がマイナスになったところで今さら関係ないということもその理由なのだろう。
さて、それに対して僕はと言うと、「絶対もう遅刻しない!最後の最後は完璧に仕事をこなす!」そんな意気込みである。もちろん遅刻など僕にとっては1年に2,3回あるかないか。風邪などは5年に1回あるかないかという稀なものなのだが・・
結局、何が言いたいかというと、こんな状況の時にその人の人間性というのが表れるのではないかということだ。目先の損得勘定だけで行動している人なのか、自分の行動に責任を持っている人なのか。僕はどちらかというと後者。望ましくない行動に対して「自分自身で許せない」という感情が沸き起こることがある。誰かの目を気にしているわけではないのである。
もちろん、こんな自分自身のイメージ戦略も回り回って自分の周囲との人間関係を良くし、最終的に僕にとって得になるだろう。という大きな損得勘定は実は考えたりしているのだが。



